2004-09-15
夏のおわり
 
 もうどのくらい待ったろう。そのうち、そのうちと言いきかせながら、いいかげん待ちくたびれてネを上げそうになるのをがまんしてじっと待った。見映えのしないものは相手にしなかった。そういう類は朝からおおぜいやって来た。彼女らの行動はいつも落ち着きがなく、もらえるものをもらえば後は用はないとばかりにそそくさと別の場所へ移動した。
要するに彼女たちは安物なのだ。安物であるがゆえに、一見豪華にみえる安直なものにしか興味を示さない。だが、ほんとうの本物は彼女たちに感づかれない何かで自分を隠し、彼女たちから身を守っている。好きな時間にやって来て、食い散らかすだけ食い散らかして去ってゆく彼女たちを無銭飲食と軽蔑していた。
 
 朝、斜めに射していた太陽が中天まで来て、強い日射しがその子の麦わら帽子を横目でにらみつけながら、ジリジリと肌を焼き、ヒマワリとダリヤはうれしそうな声を立て、花でもない子供はしびれを切らしていた。突然、あたりを裂くようなけたたましい声がニワトリ小屋からあがった。
こんな時に、あんな鳴き方をされた日には来る者も来なくなる。オニヤンマは神経質なのだ、畑のすぐそばまで来ていても、びっくりしてよそへ行ってしまう。子供は祖父からたのまれている毎朝のエサやりも忘れて、時ならぬ鳴き声をあげた間抜けなニワトリの首を絞めたくなった。
 
 腹立たしい気持を抑えて、彼はおまじないを唱えた。「ウスバカゲロウ、ウスバカゲロウ、」
 
 すると背後で何かささやく者があった。いつの間にか宗治のうしろに人が闖入していたのだ。ニワトリの声にか〜ぁとなって気づかなかったのだろうか。
 
 「ウスラバカ、ゲロウって何よ、ソウちゃん。」
 
 ニワトリもやかましかったが、この声はもっとわずらわしかった。
 
 「なんでもないよ、気にしないで。」
 
 「だれがウスラバカよ。まさかあたしのことじゃないでしょ。」
 
 瑛子は年上の特権をかさにきて、いつも年下の宗治をからかう。からかわれても、からまれても、邪険にしないで相手をしているとその内、「また遊んであげるね、ソウちゃん」と決まり文句をいって去ってゆく。
 
 「そんな風にきこえたの?」
 
 「すぐうしろで聞いたのよ。ウスラバカっていってたよ。」
 
 「‥ちがうよ。」
 
 「じゃあ教えてよ、なんていったか。」
 
 大切なまじないなのだ、そう簡単に教えられるか。
 
 「あっ、教えないナ。顔に書いてあるよ。」
 
 「瑛子ちゃんに教えても、何の役にも立たないよ。それにコジンテキなことだし。」
 
 「そ〜かぁ。何かの役に立つことなんだ。そうとわかればなお聞きたいナ。」
 
 何の役にも立たないといったのはヤブヘビだった。かえって瑛子の聞きたがりを刺激し、その時はよく考えもしなかったのだが、彼女の自尊心も刺激したのである。何の役にも立たないということばに瑛子は傷ついたのだ。傷ついたから、瑛子は瑛子なりに感情を押しころして、平気なふりをして「なお聞きたいナ」といったのだ。
 
 「教えてくれたらイイことしてあげる。」
 
 そういった瑛子の目は緑色にかがやいた。「ソウちゃん、お医者さんごっこおぼえてる?」
 
 「‥‥‥。」
 
 「したくない?」
 
 「‥‥‥」
 
 「顔が真っ赤になったよ。耳たぶまで赤く。」
 
 瑛子が反撃に出た。祖父がつくった小さな畑のなかで、小学生の宗治が中学生の瑛子にいいようにもてあそばれている。勝ち誇った瑛子の笑い声が聞こえた。だが、何年か前にくらべるとその笑いは淫靡な薄笑いだった。最近の瑛子は急におとなっぽくなった。同時に、以前とちがって清楚でさわやかになったと宗治は思っていた。
人はそんなに急変できるものではない。清楚、さわやかは宗治の思い込みで、中身は以前の暎子のまま。それがわかると、教えたくても教えられなくなった。宗治はもう充分に傷ついていたのだ。
 
 宗治のトンボ採りは近所でもちょっとした評判になっていた。ヤンマを捕獲網でうまくつかまえる子供も、オニヤンマとなると話はちがった。オニヤンマを一夏に数匹以上捕獲することは子どもの勲章で、それほどオニヤンマは網にかからないし、垣根に止まっているのを狙って近づいてもサッと逃げて、容易なことでは捕獲できないのである。
 
 ある日宗治は、祖父の畑の垣根で羽根休めしていたオニヤンマを見つけて、思わず口走ったことばが「ウスバカゲロウ」なのであった。それはまさしく呪文であり、オニヤンマがいとも簡単に捕獲網に入ってくれたのである。それから宗治は、オニヤンマをつかまえる時も、畑におびきよせる時もこの呪文を唱えるようになった。
 
 よい評判、名声はすぐに忘れさられる。しかし、不評や不名誉は消えにくい。瑛子はむろんそんなことは毛ほども感じていない。瑛子のなかには好奇心と勝気しか存在しない。瑛子にしてみればハナから宗治をもてあそんでいる。宗治がイエスといえば勝ち、ノーといっても、宗治をもてあそんだことになるから勝ちなのである。
瑛子におまじないのことをいえば、その日のうちに何人かが知るだろう。それもくやしいが、もっとくやしいのは、中学生になった瑛子を別な目で見ようとしていた自分の見る目のなさだった。瑛子はいつまでも片のつかない夏休みの宿題なのだ。
 
 
 綿菓子みたいな雲がちらばり、ヒグラシが鳴いている。夏が終わりを告げていた。

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