モデル仲間のあいだであのころ評判になったのは、三越札幌店・特設会場のアルバイトの時間給が相場の倍で、市内在住の容姿にすぐれた20歳から28歳の女性を募集したことだ。
募集人員10名に対して応募が殺到し、倍率は12倍くらいだったと記憶している。身長160センチ、小柄なので採用されないだろう、ダメもとでいい、受けちゃえ。
1週間ほど経つと「二次面接のご案内」が届き、面接官のひとりから、「失礼ですが御親戚に外国の方はおいでですか?」と質問された。過去、同じようなことを何度きかれたことか。お父さんはスペイン人? イタリア人?、答える必要もなく、うるさいと叱り飛ばしたこともある。
体型は日本女性と異なり手脚は長くヒップアップ。18歳でモデルになった。姿勢も歩き方もそれなり。モデルの先輩女性から「リタ・モレノの若いころによく似ている」と言われた。リタ・モレノって誰?数年後、映画「ウェストサイド物語」(1961)をテレビでみてわかった。リタ・モレノの身長は160センチらしい。
ウェストサイド物語に出演した主な俳優で2026年8月現在、1931年生まれのリタ・モレノも、同年代のリチャード・ベイマーも、ジョージ・チャキリスも健在。主役のナタリー・ウッドだけが1981年に43歳で亡くなっている。ナタリー・ウッドは「草原の輝き」(1961)の主演女優。美人で芝居もうまく、すばらしかった。
マリリン・モンローはセクシー女優と日本映画界で低い評価を受けていた。そんなこといってるから世界に取り残されるのだ。ヨーロッパにはデボラ・カーやオードリー・ヘプバーン、イングリッド・バーグマンのように性的魅力が売りでなく、演技力とチャーミングで有名になった女優がいる。
ブリジット・バルドー、ソフィア・ローレン、クラウディア・カルディナーレのように性的魅力と表現力を併せ持ち、映画界を席巻した女優もいる。
女優を四角定規で測るのは愚か。一点でも卓越した特長を備えていれば注目されるのだ。平均点の高さで選ぶ日本は50年おくれていた。マリリンには遠くおよばないとしても、漂流しながら辿りつかない港をめざすことはできる。
芝居はヘタでも容姿で勝負。そこまで自惚れていないとして、東京で通用しなくても札幌ならイケると思った。16歳でも20歳に見られた。ぶりっこは通用せず、おとなびているのが注目される時代。
モデルの仕事は主に撮影会。主催者が準備した服を着て会場に赴く。ロケカーを使う場合、車の中で着がえたこともある。会場は中島公園、円山公園、月寒公園、真駒内公園など多岐にわたった。月寒公園は豊平区平岸の自宅に近いのでさっさと引き上げたかった。
屋内撮影は水着。ギャラがいいのは大胆なビキニ。一度やったけれど、きわどいポーズを要求され断ったら、モデル風情がと言われ頭にきて、そういうモデルを見つけろと言い返してやった。
三越の特設会場でおもしろい人と知り合い、休憩時間にお茶に誘われ、駅前通りと大通りの交差点のビル2階へ。総ガラスばりの窓際コーナー席から大通りも駅前通りも見える。「ここ、初めてです」と言うと彼は、「地元の人はほとんど来ないよ。内地の人間御用達だから」と言った。そんなことはないでしょう。
暦便覧に「大気が冷え、露ができはじめる」時季を、「陰気ようやく重なりて 露にごりて白色となれば也」と記されている。二十四節気第十五「白露」は、処暑と秋分のあいだ。そんな話を彼がしたのは、道北から道東の港町に寄港する船の多くはロシア船で、外国人を見かけたらロシア人と思えばいいという話からだった。
白露西亜(はくろしあ)はベラルーシの当字で、白露という文字を知って彼は白露西亜を連想したが、ベラは白の意とわかり、白露とぜんぜん違って単に白いロシアなので安堵したらしい。
「ルーシはロシアですか?」と尋ねると、「スラブ人の土地です」と教えてくれた。1980年代の国名はベラルーシではなく白ロシアだったが、そんな国があることさえ知らなかった。
彼と唯一の共通点はフランス映画をみていること。狸小路(札幌の商店街 東西900メートル)の話から映画館の話になって、「フランス映画、好きなんです」と思わず口走り、「最近、何かみた?」と彼が尋ねる。
「太陽がいっぱい」や「赤と青のブルース」のマリー・ラフォレは美人で演技派。フランス映画ではないが、「オリエント急行殺人事件」(1974)の伯爵夫人役ジャクリーヌ・ビセットは18歳でひとり立ちし、モデルになったきわめつけの美女。
オードリー・ヘプバーンの「いつも2人で」(1967)にジャクリーヌ・ビセット出ていたねと同調を求めてこられても、「えっ、そうなんですか」としか言えなかった。高校時代いっぱしの映画評論家気取りだった彼とはみている映画の数に差がある。
映画のあとのバルセロナ、バレンシア、マヨルカなどの旅行話は楽しかった。バレンシアの火祭りで10メートル先で花火が打ち上がるさいの轟音と地響きは大砲さながら。
バルセロナ旧市街ランブラス通りの長さは1.2キロで、両サイドに並木が植えられ、狸小路と違う。レストラン、カフェ、花屋、小鳥店などが軒をならべ、地元客、観光客がおおぜいやって来る。
マヨルカのショパンとジョルジュ・サンドのロマンス、彼らが暮らした家の裏庭に植えられたレモンの木。情熱的なフラメンコ。話は臨場感に満ち、その気になった。よし、行くならスペイン。ファッションにつぎ込まず貯金を増やそう。節約すれば1年以内にまとまった額になる。
会話のなかに名前だけは知っていたが、世界地図を広げてもどこなのかわからないアフガンニスタンの名が出た。地理は苦手。ソ連のアフガニスタン侵攻さえ知らず彼は呆れた。
報道番組をみていないのがバレバレ。先回りして彼は、「モーニングショーやアフタヌーンショーでもソ連の侵攻を取りあげていたよ」と言った。そこまで言われたら立つ瀬がないわ。モデルはみなバカだと思っているのでしょう。
興味をひかれたのは、ヘラートという町を一望する丘から見た落日。遠くの地平線に大きな太陽が沈み、沈んだ直後、町も顔も身体も着衣もすべて真っ赤に染める落日のすさまじさを語ってくれた。地平線に夕日の落ちる光景が浮かび、数年前の風景がよみがえる。
知床でオホーツク海に沈む夕日を見た。雄大で美しかった。そう言うと彼は、紋別に母のセカンドハウスがあって、知床は3度行き、そのつど夕日を見ているが、そんなものじゃないよ、ヘラートの夕日はと言った。
私は江別の施設で育った。本当の両親は知らない。北海道にロシア人が多いので、もしかしたらロシア人との混血かもしれないと思ったこともある。
札幌の夫婦が養女にしてくれた。義父は厳しい人だったが、義母はやさしかった。小学生のころ、一度や二度、「あいのこ」と言われたことがあった。気にしていたら学校に行けはしない。
中学生になって面立ちがロシア人とは違う、ラテン系だと思いはじめた。10代後半に確信した、ロシア人のように大きくもないし、太ってもいない。それでも、結婚して子どもを産んで、ぶくぶく太りはじめて、と想像したらぞっとした。あの子、モデルやってたのに、まさかLL寸になるとはね。
24歳になって思いがけない話が舞いこんだ。仲のいい同僚の姉がマドリッドで観光ガイドをしていて、一緒に行かないかというのだ。海外旅行経験がなかったので、パスポートの申請方法も知らない。同僚に返事したのは3日後。
彼にスペイン行きを伝えたら、近々札幌に行くから会おうと言う。なんとなく気が進まず30分くらい遅刻した。イスに座ると不機嫌そうな顔で「あと5分で帰っていた」と言われた。
数秒の沈黙のあと、「これ、少ないけど餞別」とテーブルに封筒を乗せる。「何ですか?」。中身は新札数十枚。「もしかしてスペインの通貨?」。500ペセタ札20枚、10000ペセタ入っていた。1ペセタ5円の時代。いただけませんと言ったが、いったん出したものは受け取れないと言い放った。
出発日まであっという間。マドリッドは週単位で契約する民泊。メゾンの一室でキッチン付き。モデル仲間の同僚はマドリッドの空港で交際相手が迎えに来ており、市内までは一緒だったが、私が先に降りて、彼らは別の巣へ。何かあったらと連絡先のメモを残してスペインの一日が始まった。
画像はリタ・モレノ

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