マドリッドのバールで観光ガイドの彼女と待ち合わせていた。20分くらい遅刻したが来ていなかった。上には上がいる。サングリアを飲んでいるとスペイン語で話しかけられ、英語で「スペイン語わからな〜い」と言うと、男は日本語で語りかける。
外国語をおぼえるには地元の異性と交流するのがベストというのは知っている。だが日本人とわかって近づいてきた可能性もある。まだ話すことある?と言うかどうか迷っていたら彼女が現われた。
そこで終わるはずなのに、お邪魔かしらみたいな彼女の顔を見てスペイン野郎は調子に乗った。このバカ、こっちの態度をみて察しをつけろ。こういうとき何て言えばよいのか、ノー・サンキューは能がないし、、おととい行きやがれはあまりに品がない。Get Out かと一瞬考え、タイミングを失った。
男は間抜けたアンディ・ガルシアのような顔、好みじゃない。ジャン・ギャバンみたいに硬派で渋みがなければ。金庫の大金を奪う強盗役の「地下室のメロディ」(1963)。ジャン・ギャバンがやれば悪は輝き、応援したくなる。美男を鼻にかけ、なれなれしくするのは女の反発を買うって知らないのかい。
撮影会のモデルは気取って、よそよそしい。素人カメラマンも澄まし顔のモデルに魅了されてシャッターを切る。すぐ笑うと安くみられかねないので、シャッターを切る瞬間に素早くほほえむ。彼らはびっくり箱から飛び出す道化師のように、いや、それを見た子どものように驚き、喜ぶ。
モデル特有の気取りはパリ・コレクションやミラノ・コレクションで培われた。彼女たちは一様に気取って、よそよそしかった。そうするのがモデルの習性であるかのごとく。
1970年代に現われた日本人がモデル界の常識をくつがえす。切れ長の目、独特のアイライン、黒のおかっぱ髪、気取らず偉ぶらず自然体で個性的。山本寛斎、高田賢三、三宅一生がパリ・コレに起用し、以降、フランスのトップ・デザイナーからもオファーを受け、何度もVOGUE誌の表紙を飾る。服飾学院に通い、その後モデルになった山口小夜子だ。
日本ブームの先駆けは浮世絵だとされるが、山口小夜子がもたらした日本人ブームは大規模で、フランスにとどまらずヨーロッパ先進国、米国にまで広がり、彼女は最も有名な日本人となる。
化粧品会社と専属契約し、ポスターは都市部の地下鉄、私鉄駅に貼られ、いやがおうでも乗客の目に飛びこんだ。山口小夜子は笑わないモデルとしてのイメージを創りあげ、日本のモデルはこぞって模倣した。
30年くらい前までのモデルはほとんどそうしていた。そうでないモデルは売れず、つまはじきにされたが、21世紀になると「つながり」が重視され、気取って、よそよそしい女はボイコット。笑わないモデルも論外。
気取っているのは頭のわるさのカモフラージュだと言う者もいた。このごろの小金持ち女はモデルほど容姿に秀でていなくても、昔のモデルのように気取っている。時代に取り残されているとしか思えない。
モデルはふつう香水を使わない。シャネルNo.5のCMで有名になった女優・モデルのキャロル・ブーケでさえ香水をつけなかったといわれている。体臭と香水が混ざってマイナス効果を生むことがあるからだ。
体臭のほとんどしない女性がわざわざ香水をふりかけ香りを放つ必要があるとは思えない。わたしは香水を使わなかったし、匂いのする化粧品を買ったこともなかった。
マドリッドの花屋で見たチューリップがステキだった。チューリップ栽培はオランダという先入観があるせいか意外。10月半ば、季節はずれのチューリップはバラより高い。
5月半ばになると札幌・大通り公園のチューリップがいっせいに咲く。チューリップは小学校で絵日記に描いた。簡単に描けるから。色は赤、黄色。「あか、しろ、きいろ、どのはなみてもきれいだな」と歌われているけど、白のチューリップを見たことがなく、描く子もいなかった。
チューリップは日当たりのよい場所に咲くと思っていたが、三越札幌店の催場で知り合った彼は、昔の実家の中庭では、太陽が真上にくる前後しか日は届かないのに咲き、記憶にあるのは日陰のチューリップらしい。直射日光にさらされない日陰のチューリップはきれいだよと言った。
思い出ついでに当時、世の中を騒がせた松本サリンを知らない私に彼が言ったのは、「きみ、浮世離れしている」。そんなこと言われても、知らないものは知りません。
当時、植物の種や苗、球根は花屋でも買えたが、彼の行きつけは主に鳥のエサを売る店で、さまざまな種、球根も販売し、花屋より値段が安かったそうだ。球根を買い、光は少なくても何とかなるだろうと思い、祖父の畑ではなく日当たりのよくない中庭に植えた。
4月、桜が満開になったころチューリップのツボミが開き、父親が誉め、妹が見とれた。明治17年生まれの祖父は寡黙。孫に何も言わず、祖母に「フミオのチューリップが咲いた」とうれしそうに言ったらしい。
マドリッド滞在5日目、例の彼女とバルセロナへ行った。2日前、行かないかと聞かれてOKした。急なので航空機はだじょうぶかとの問いに対して、「問題ないよ、イベリア航空とエア・ヨーロッパ航空で毎日40便バルセロナに飛んでるから」と応える。「ホテルはバストイレ付きなら適当でいいね」と言うので任せた。
ホテルはランブラス通りに面し、サグラダ・ファミリア、グエル公園が徒歩圏内、通りにはコンビニやバール、レストラン、ギフトショップも数多くあった。ランブラス通りの中央は歩行者専用道、左右は一方通行の車道。歩行者専用道にはベンチもいっぱいあり、円形の花壇が随所に置かれている。
ホテルのバーでレモネードを頼んだら、ガス(炭酸)入りかガスなしかと聞かれ、ガス入りにした。氷は? 氷入りは常識でしょうと考えるのは早計、スペインには氷なしで飲む人も多い。
バーテンが、レモンは絞りたて、水はピレネー山脈の炭酸水だと教えてくれた。ガス入りレモネードは飛びきりの味で、やみつきになった。食事でミネラルウォータを注文するときも、ガス入りかガスなしか聞かれる。彼らは水と同じように炭酸水を飲む。でも水がわりの炭酸水はノー・サンキュー。
翌日、彼女とモンセラートへ行った。バルセロナから列車で1時間ちょっと。モンセラートは「のこぎり山」の意。稜線がぎざぎざの山が連なる。崖の上の修道院、その隣には立派なホテル。
修道院の敷地をホテルが借りているとも、修道院が経営しているともいわれるが、どうなのだろう。調べないまま時が経った。彼に行ったことがありますかと尋ねると行っていないと言う。束の間の優越感。
ランブラス通りの骨董品店で誰が作ったのかわからない八角形の木製箱を買った。ふたはデコパージュで、ゴヤの絵の装飾が施され、縦横約25センチ、15センチ、高さ8センチくらい。ペセタなら8000、米ドルなら200ドル。
あのころトラベラーズチェックが使え、米ドルはバルセロナの闇ルートで同額のペセタより10%ほど割高だと彼女から聞いた。で、180ドルに値切って、しわくちゃの包装紙に包んでもらう。店主は誠実そうな初老の男、いいかげんな故買屋がクチにする「スペシャル・プライス」は一切言わなかった。
札幌の自宅近くにデコパージュの先生がいるので、週一ペースで習って作れるようになり、拙さ承知で彼に贈ったことがある。反応は芳しくなかった。納得のいく作品ができたらまた贈ろうと考えていたので渡りに船。餞別10000ペセタのお返し。ランブラス通りに感謝。
八角形のデコパ−ジュ箱は帰国後、札幌で渡した。「足が出ただろう」と戸惑いながら、「お返しのお返し、何にしようか」とつぶやく。「何もいりません。腕が上がったら作品送ります」とだけ言った。
1995年1月、阪神大震災で被災者の多かった宝恷s。ソ連のアフガニスタン侵攻も松本サリンも知らなかった私でも阪神大震災は知っている。震災当日お昼ごろ電話した。元気そうな声を聞いて安心し、「何かほしいものないですか?」と尋ねたら、しばし沈黙のあと、「千秋庵のノースマン」と答えてくれた。
お安い御用。それだけじゃお見舞いにならないと思い三越札幌店で花を買った。赤、黄、白のチューリップ2本づつ6本。数日後、連絡があった。「長〜い白の箱が届いて何だろうと思って開けたら3色チューリップ。花は大きく生き生きして、茎の長さにもびっくり、ありがとう、チューリップ相手にノースマン食べます」。
「結婚しても連絡していい?」と彼に言っても「ダメ」と突っぱね、「別れたら連絡してもいいよ」とつけ加えた。ジャン・ギャバンにぜんぜん似ていないが、硬派なところがあって、ユーモアもある人だった。
花屋でチューリップを見るとあのころを思い出す。日陰より日なたのほうが似合うよ。でも日陰で咲くからこそ日なたでは得られない鮮やかさに目を奪われる。彼の感性が見いだす美。夜露に濡れ、雨に叩かれ、いつの間にかくたびれても、まっすぐ立つチューリップはいいなと思える年齢になった。
京都府立植物園のチューリップ 2017年

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