2026-08-25
花ごろも(1)
 
 成蹊大学の英文科4年に在学していたころ、松本市の高校時代の知人に翻訳のアルバイトしないかと誘われた。彼女も翻訳のバイトをしているのと尋ねたら、「英語できないから」と言った。インドで知り合った男性が、誰か紹介してくれと頼んできたらしい。「その気があるなら連絡先教える」と言う。昭和49年(1974)、ずいぶん昔の話。
 
 その男性は3歳年長、下落合の賃貸マンションに一人住まい。翻訳本の内容によっては引き受けられないかもしれず、とりあえず電話することにした。
渋谷の喫茶フランセで会い、「ショートケーキ食べませんか?」と言うので素直に「いただきます」と応えた。大学1〜2年のころ何度か食べたケーキのお店。生クリームとスポンジが絶妙のやさしい味で、イチゴも甘い。あっさり味の生クリームと甘いイチゴの組合わせ。
 
 渋谷は半年ぶり。アパートは吉祥寺なので、井の頭線を利用すれば渋谷まで約20分なのだが、衣料品の調達は1974年(昭和49年)に東急百貨店・吉祥寺店がオープンし、渋谷に出なくてもすむようになった。以前は渋谷駅前の東急百貨店を利用し、駅付近の地理は頭に入っている。
 
 彼が言うには、翻訳は必ずしも特定の分野ではなく、欧米の化学関連企業の会報であったり、社内会議の報告書であったりで、そのコピーなのだが、時おり専門用語が織り込まれている。「手に負えるかどうか自信ありません」と言うと、「家に持ち帰って検討し、返事を聞かせてほしい」と言われ、矢継ぎ早に報酬の話になった。
 
 「えっ、そんなにもらえるんですか!」。思わず叫んだ。これはやるっきゃない。でも即答を避け、検討したふりをして翌日、「うまくできるかどうかわかりません、でも、やります」と応えた。
 
 初めて見る化学専門用語は成蹊の図書館へ行き、ランダムハウス英和辞典やグランドコンサイス英和辞典、リーダーズ英和辞典と取っ組みあいしながら調べ、それでも載っていない単語については、オクスフォード英英辞典や化学用語事典(英語版)で調べた。悪戦苦闘の末、3週間の期限内になんとか終わった。
 
 「よく訳せてる。がんばったね。」と言ってもらい、約束の報酬を受け取った。それから彼の代役となって翻訳作業に追われる。毎月のように渋谷で会い、フランセでケーキを食べ、翻訳のコピーを渡された。そして年が明け、彼は畑の話をした。
 
 祖父が亡くなる前まで実家の畑にきうり、なすびの夏野菜や、矢車草、ダリア、カンナ、鶏頭などの花をおじいいさんが育てていたという。春になるとモンシロチョウが飛んできて、夏が来たと思えばアゲハチョウがやって来る。
夕方になる家の前にコウモリが飛ぶ。アカトンボほど顔にぶつかる感はなくても、コウモリが頭上すれすれに群団で飛ぶと小学生低学年のころは恐かった。高学年になって恐怖は消え、中学生になるとコウモリを見なくなった。
 
 モンシロチョウは季節によって菜の花やアザミにとまって密を吸っているけれど、アゲハチョウは鶏頭の花だけなぜかお気に入りで、ほかの花には目もくれず、鶏頭の最後の密までむさぼり吸う。
 
 彼は目を輝かせて話していた。わたしの父の趣味は庭いじりで、家の裏庭に四季の花を植えていた。ビロード製の造花のような鶏頭を美しいと感じたことはないが、鶏頭が咲きはじめると秋。しかしチョウはともかく、つばさを広げて飛ぶコウモリは見たくもない。顔はネズミみたいだし。
 
 うわの空と察したのか、コウモリの話は引っこめ、いきなり「深大寺、行ったことありますか?」と問われる。ありませんと応えると、「白鳳時代の釈迦如来仏が安置されてます、」。「‥‥」。お寺の隣に植物園があって、ちょうど曼珠沙華がみごろ」。「吉祥寺や三鷹から深大寺までバスが出ています。吉祥寺から35分、三鷹から25分」。
 
 そこまで言われたら断れない。仏像に興味はないけど。「三鷹駅で待ちあわせよう」。言葉を継ぐまもなく、あれよあれよで深大寺行きが決まった。曼珠沙華は墓地の花という印象が強い。父は、「彼岸花(曼珠沙華)の球根に含まれる毒がネズミの害を防ぐ効果を持つ」と言っていた。ネズミが墓を荒らすのか。
 
 子どものころ、近所の子が曼珠沙華の茎を折って数珠とか首飾りにして遊んでいた記憶がある。「曼珠沙華の花は咲いても葉がない。花が枯れたあとに葉が出てくる」と父は言い、「曼珠沙華は稲作伝来と同時に渡来した」とも話していた。
 
 「赤い花なら曼珠沙華 オランダ屋敷に雨が降る 濡れて泣いてる じゃがたらお春」という「長崎物語」は戦前の歌だが、戦後、青江三奈がカバーした。
 
 神代植物園の曼珠沙華は群生していて賑やかすぎる。赤い花は色で自己主張しているのだから、群生を避け、点在するほうが美しくみえる。かたまって咲いていると、宝怏フ劇の終演後、集団で我がもの顔に闊歩するオバタリアンの束(タバオリアン)、または始終クチを動かし、自分たちがウケているだけの関西芸人みたいで、やかましいことこの上ない。
 
 植物園を見学し三鷹にもどると、「そば嫌いじゃないですか?」と問われ、思わず「大好きです」と応えてしまった。それで入ったのが三鷹駅徒歩50歩の蕎麦屋「柏や」。天ぷらそばを食べた。花の話に花が咲き、じゃがいも、りんごなど野菜や果物の話をした。
 
 北海道の岩見沢近辺では真っ白のじゃがいもの花が畑一面に咲いて、雪が積もったように見えると言い、遠軽(えんがる 道東)で木なりの真っ赤なリンゴを見た。
大学1年の春休み、小諸に近い丘陵のりんご畑を通り抜けていると、農家のおばさんが、「学生さん、りんご食べるかい」と声をかけてくれた。道々かじったりんごの甘さ、歯ごたえが忘れられないという。「松本生まれならりんごの花、知っているよね」と言う。りんごなら任せてと言いたかったが「はい」としか言わなかった。
 
 渋谷で何度もケーキを食べ、天ぷらそばもご馳走になり、お返しをしなければ。「果物のなかで一番好きなのはりんご」と言っていた。それで決まり。松本産信州りんごはおいしいんだから。
                      
                    (未完)
 
       曼珠沙華 京都御苑


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