2026-08-21
花驟雨(2)
 
 岡本の師匠は個人の注文服のほかに神戸に本社を置く服飾メーカー数社のデザインも手がけていた。個人客の多くは岡本や御影の富裕層夫人。採寸、仮縫いは師匠が自宅を訪ねておこなう。年齢層は40代〜60代が中心ということだが、一度も会ったことがない。
師匠にはお針子2名のほかに助手もいた。女の世界なのであるが、全員職人で、毎日があわただしく過ぎてゆくせいか、私たちは女の世界だと意識したことはなかった。休憩なしで6時間ぶっ通しの作業をすることも当たり前の世界。
 
 顧客が海外旅行し、メーカーが盆休みのさなか、私たちに休みはなかった。盆明けのメーカー各社の納期に間に合うよう、お盆は深夜までミシンと格闘するか、婦人服のそでぐりを手縫いするかで忙しかった。病院勤めの姉にも盆休みはなかった。
勤務が外来から病棟に異動したため、夏休みは交代でとるしかなく、ベテラン看護婦を優先する習慣なのである。看護婦は軍隊式が習慣化していて、それを誰も不思議に思わない時代だった。
 
 ふみにいと会って浮世離れした会話に最初はとまどった。でもデザイナー学院の同窓の男子や、神戸の大学生とは違い、自意識過剰や気取ったところは微塵もなく、自己顕示のかけらも見せなかった。
文通していたころ手紙には一切理屈を書かず、難しい性格ではないと見ていたのだが、自分を理解してもらいたいという姿勢に欠け、わからなくても気にしないという雰囲気を漂わせていた。
 
 その種の人間はおおむね自分勝手。そういう人でも心に響くこともある。バスを降り円通寺に向かう道すがら、「時代を築くのは経済に功績のあった人でもなく、作家でもなく、歌手だと思う。彼らの名は忘れられても、歌は何年経っても忘れない。時代は身近なものによって記憶に残されていくのじゃないかな」と言った。
 
 「じゃあ、その時々の流行を追うのは人の習性といえるのですか?」。ファッションが時代をこえるとは思わない、が、時代をリードすることはあるだろう。
 
 昭和48年から49年ごろ、京都で昔ながらの小道を歩きながら語り合ったのは男女のとりとめのない会話と異なり、一部はおぼえている。その後、京都へ何度か連れていかれた。
円通寺、正伝寺は郊外にあり、比叡山がきれいに見えた。正伝寺の参道は小さな森に囲まれ、ひっそりしていた。庭園見学中も、参道の行き帰りも人に会わなかった。洛中にはない静寂。円通寺の杉木立・数本のあいだに見える比叡山も、庭を囲む植物は椿か、三方の高さをそろえた長方形の刈込みが印象に残っている。
 
 現実ではなく、仮想世界のなかで戯れていたのではないか。空は晴れてもなぜか心は濡れていた。言葉の雨が降り、濡れた心はやるせない。
正伝寺を拝観して上賀茂神社まで歩いた。空が一面雲におおわれ、あたりが暗くなる。早く着かないかと気になった。さすがに折りたたみカサは持っていないだろうと尋ねたら、「持っていない」と言う。
 
 到着した途端、篠つく雨。上賀茂神社本殿で雨宿りしていると、雨宿りの人が増えていった。「雨女」と言われるのじゃないかと思ったが言われなかった。国東の二の舞は望むところ、言われるほうがすっきりする。雨に濡れなければ心が乾く。
あの雨がなかったなら、その後のことも京都の体験もなかったろう。誰が案内してくれるかより何処へ案内してくれるか。どんな風景が待っているか。あのころ、ふみにいは風景の一部にすぎなかった。
 
 京都の次は明日香村へ行き、甘樫丘に上った。甘樫丘から見たのは、田園と民家、山並みが調和し、六甲の山並みと較べると親近感がわき、遠くにいても懐かしい親戚のようだった。
飛鳥寺までの道は田んぼと畑のあぜ道を通って行く。秋の刈り入れが終わって野焼きをしていた。数百メートル先で煙がのんびりとたゆたい、枯れ草の燃える匂いが伝ってくる。京都とは異なる風景。
 
 飛鳥寺は若いお坊さんによる飛鳥大仏の話。くりっとした目が可愛く、「仏さまのお身体で当時(飛鳥時代?)のものは指の一部と石の台座だけです」と話していた。ショックだったのは荒れ果て、廃寺みたいに見えた橘寺。
聖徳太子生誕の場所とは信じがたい。橘寺は驚くほど小さく、飛鳥時代はまったく別の建物だったのだろうが、栄華を示す何も残されておらず、子どもが数名、お寺のまわりを走っていた。子どもたちがいなければさぞ寂しいお寺だったと思う。
 
 「奈良はどこへ行っても食べ物はおいしくない。奈良ホテルの洋食はどうにかお腹にはいるけど、ここからじゃ遠すぎるし」とショルダーバッグから取り出したのは、なんとサンドイッチだった。
「ふみにいが作ったの?」、「妹がね」。ハムと野菜、焼き卵、2種類のサンドイッチはマヨネーズに辛子もピリッときき、食パンも薄く、喫茶店で食べるサンドイッチとは較べものにならないほどおいしかった。
 
 遠出なので集合は朝8時半、梅田で待ちあわせ。妹さんは早朝に起きたのだ。妹さんに会いたくなった。願いは叶い、宝恊m川のマンションで妹さんに会って意気投合した。同い年で、明るく、思いやりのある方だった。「五黄(ごおう)の寅生まれの女は気が強いと誤解されているよね」と彼女は言った。その通り、誤解です。
 
 ありえないこととしても、ふみにいと結婚したら私が姉になる。どう考えても姉ではない、相性がよいとしても私に相手をやさしく包みこむ器量があるとは思えなかった。妹さんはそんなことにこだわらず、やさしく接してくださった。
 
 時はめまぐるしく過ぎてゆく。思い出すようになったのは70歳を過ぎてからだ。昭和52年、実家に帰って服飾メーカーの福岡支店に就職し、デザイン部門に配属された。1年目から型紙が採用され、日本のどこかでその婦人服を着ている人がいる。
それから1年後、30歳になる直前、柄にもなくお見合いし、家庭を持っても仕事を続けるという条件つきで結婚した。子どもはいない。夫は3歳年上で、4年前病死した。理解があって良き夫だった。
 
 服飾メーカーを退職して、福岡市に仕立て直しの店を持った。オートクチュールの客層より既製服の寸法直しの需要は多い。当時、リフォーム店は少なく、毎日数十名の客が押しよせ、てんてこまい。
 
 日々、客足は増えつづけ、3〜4日後どころか1週間後でも仕上げる見込みが立たず、洋裁の心得のある人を募集した。女性だけかと思ったら男性も数名応募してきた。ミシンを使える人を2名採用した。
どこからともなくフランチャイズの話が持ち上がり、福岡市に6店舗オープンし、経営は自分の店だけで十分、気楽な独立採算制にした。
 
 姉は未婚で看護師を続け、国立病院で定年を迎えた。もう何年も会っていない。昭和51年、ふみにいが肺炎で宝怩フ総合病院に入院し見舞いに行ったとき、病室から出てきた女性と通路ですれちがった。美しく凜とした方だった。この人が奥さんになる人だと直感した。
 
 ふみにいの妹さんが62歳で亡くなったと風の噂で知った。妹さんに会ってまもなく、「心の広い人」と言ったそうだ。誰のことかとふみにいに尋ねたら「君のことだよ」。泣きそうになった。
彼女の悲報に接し、大きな味方をなくしたという思いで胸がいっぱいだった。それから、あと何年仕事を続けていけるだろうという思いは消え、あと何年生きられるのだろうと思うようになった。
 
 ことしの夏は晴天が多く異様に暑い。真夜中のドアを開け、涼しい空気にあたりたい。あのころの晩夏は朝晩すごしやすく、秋の予感がした。雨が降るたびに秋が近づいたのは遠い昔である。
 
        ムラサキシキブ 2017年7月19日 京都「渉成園」


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