2026-08-18
花驟雨(1)
 
 昭和44年(1969)夏、同年春高校卒業後、小倉のデザイナー学院へ通っていたころ、前年夏に指宿で知り合った男子学生と文通していた。昭和43年、高校3年生だった私は、看護学校在学中の姉と指宿の国民休暇村に宿泊、建物の裏は錦江湾の海で、部屋からも海が臨めた。
 
 夜、裏庭の手すりに両手を預け、ぼんやり海を眺めていた。砂浜は塗りつぶしたように黒く、凝視しても見えず、月に照らされた波が金色に輝き、打ち寄せる波の音だけが聞こえる。波と私を隔てるものは狭い砂浜だけなのに、音は遠くに聞こえ不気味だった。波の彼方に幽霊島があるのではないか。
 
 人の気配がして振り向くと琵琶色にオレンジのチェック柄の人が立っていた。顔も腕も真っ黒で見えず、半袖シャツだけ見えた。幽霊ではなかった。会話らしい会話はなかったように思う。
その人と朝のレストランでも会った。好みのタイプであるかどうかに関わりなく、そのころ旅先で名前と住所を交換するのはある種のマナーだった。
 
 長い時が過ぎ去り、記憶をたぐり寄せてもおぼえていることは少ないけれど、彼は筆が立ち、返事を出せば必ず返事をくれて、手紙を読むのが楽しみだった。 
昭和44年6月、梅雨が明けたら臼杵へ行く、一緒に行かないかと書かれた手紙が届き、臼杵は高校2年のとき同級の女生徒数名と行ったので案内できますと返事した。年上の人の役に立つのが誇らしかった。
 
 大分空港から国鉄「大分」駅まで約1時間、大分駅から臼杵駅まで約30分、臼杵駅からバスに乗り、臼杵石仏バス停まで20分。道中は長い、時間もかかる。彼が提案してきたのは臼杵駅でお昼ごろ待ち合わせて、バスの出発を待つあいだに駅前食堂で何か食べよう、バスの時間を調べてくださいということだった。
 
 臼杵駅前に食堂はない。小倉駅から臼杵駅まで列車が運行していて、約2時間かかる。途中下車し大分駅で昼食なら問題ないが、航空機到着時間との調整がうまくいかず、臼杵駅発のバスは本数が少ない。
小倉駅でお弁当を買った。弁当一つがムダにならぬよう願いつつ。そういう時代だった。当時、彼は20歳、私18歳。
 
 臼杵を回っているあいだ、自分のことは話題が少ないので家族について話した。父は八幡製鉄所(現在の日本製鉄)に勤め、住まいは製鉄所の社宅で、北九州市八幡区(現在は八幡西区と東区)にあった。
姉は北九州市の小倉看護専門学校で2年間学び、その後病院で3ヶ月研修を受け、下関の総合病院で働いていたが、私がデザイナー学院で学んでいたころ、半年足らずで辞職し、大阪府豊中市の総合病院に再就職した。看護学校時代の同僚がそこで働いていたからと姉は言ったが、詳しい経緯は不明。
 
 お弁当をどこで食べたのだろう。石仏の岩陰で食べたような記憶はあるが、はっきり思い出せない。臼杵の石仏を見学したあと彼は国東半島を一周するバスに乗らないかと言った。国東半島のどこかで降り、付近の海岸を歩いて、1時間か1時間半後に来るバスに乗る。
しかしバスが都合よく来るだろうか。バスを延々と待つか、半島に置き去りにされるかもしれない。それでどうしたかというと、国東半島を一周した。バスはなんとかなった。
 
 7月下旬の国東半島はカンカン照りだった。空気が乾いていたせいか汗はそれほど出ず、この辺りで降りようと彼が言い、途中下車して道なりに5分も歩かないうちに浜辺につながる小道が見えた。草ぼうぼうの小道を先導してくれたが、笹が足に容赦なく当たる。当時ミニスカートが流行していたのだが、ジーンズをはいてきてよかった。
 
 何もないというのはこういう景色のことか。砂と海と空。浜辺に人も家も皆無、海に舟影は見えず、空は雲ひとつない。あっけらかんとして言葉も思い浮かばず、だけど彼は、「こういう風景はそう見られるものじゃない。遠くへ来たという実感がわく」と言った。ほかにも何か言っていたが、おぼえていない。
 
 国東半島一周を終え、臼杵のバス停で帰りのバスを待っていたら、突然積乱雲がわき上がり大きくなっていった。天気予報は見事に外れ。カサを持っていなかった。
大粒の雨が降りはじめたとき彼はショルダーバッグからカサを取り出し、私の頭上にかざす。肩を寄せあわないと彼が濡れる。激しい雨のせいか、肩を寄せてもドキドキしなかった
 
 バス停の横に咲く草花が雨に打たれ元気を失う。高校時代からのショートヘアはこういうときに役に立つ。横なぐりの雨が飛んできても濡れる髪の面積が小さく、髪の乱れも少なくてすむ。
そう思う先から雨は激しさを増し、膝下はびしょ濡れになった。そのとき向こうから近づいてくるバスが見えた。遣らずの雨とは異なり、暗くなる前に帰れた。博多に宿を予約している彼と八幡駅で別れた。夕立を逃れ安堵が先立ち、国東半島の記憶はどこへやら、どしゃぶりの雨だけ鮮明に記憶している。
 
 臼杵の数週間後、夏休みも残り少なくなったころ、海外から絵はがきが届いた。バーデン・バーデンというドイツの温泉地からだった。指宿温泉の後、また温泉に来ていますと書いてあり、その文言だけ半世紀たってもおぼえている。
 
 昭和46年(1972)春、デザイナー学院を卒業し、神戸の岡本に住む女性デザイナーに弟子入りした。1階が工房、2階が事務所と小部屋。私は住み込みで小部屋を借りていた。最初の1年は来る日も来る日もミシン掛け。型紙をつくらせてもらったのはそれからだった。
日本でオートクチュール(高級仕立服)という言葉がささやきはじめられ、贅沢嗜好が普通となり、庶民が高級品に手を伸ばす。注文服の需要が増すということは服飾に携わる者のドアが増え、生活できるということだ。
 
 初めて岡本の師匠に会ったら、「背が高いのね。何センチ?」と尋ねられ、162センチですとサバを読む。本当は163.5センチ。「あなた、スタイルがいいからモデルに向いてる」とも言っていた。モデルなんて怖れ多く、考えたこともない。
 
 病院勤務の姉のアパートは豊中市のとなり池田市石橋にあったから、岡本駅で阪急電車を利用すればいつでも会いたいときに会える。昭和46年春、姉と阪急電車宝恊の石橋駅で待ちあわせした。
駅前の商店街には小さい店が連なるように並び、市場みたいで、姉は魚屋でメバルを買った。八幡で生きのいい玄界灘産を食べていたからどうかと思ったが、関西へ来て食べる機会に恵まれなかった。
 
 生きのよさはともかく煮つけの味が母そっくり。おいしくないわけがない。「玄海じゃないよ、瀬戸内海だからね」と姉は言った。玄界灘のメバルなら母の味になるという意味だ。「瀬戸内海のメバルもなかなかやるじゃない」と私が応じる。
 
 「二人きりの姉妹なのやから、神戸で会っても仲良くしないといけんよ」と母は言った。仲良しなのになぜそんなことを言ったのかわからない。性格も嗜好も生き方も違うのを母は気にかけていたのだろう。私はさっぱりしているが、姉は私以上で、素っ気ないと思えるほど。
 
 母は鹿児島の生まれ。薩摩おごじょは芯が強く、気立てが良く、困難にまっすぐ立ち向かうとされている。姉はともかく、私はどうだろう。明るく社交的なのは間違いないと思う。しかし、芯は強いと思えず、せっかちで新しいもの好き。流行を先取りしたファッションを扱うデザイナーに向いていると自己判断した。
 
 師匠宅に弟子入りする前、なぜか自然に手紙のやり取りは途絶えた。彼は私が岡本にいることを知らないまま2年が過ぎていった。昭和48年(1973)秋、久しぶりに手紙を書いた。彼の返事に「京都へ行きませんか。大徳寺、円通寺、詩仙堂、どこへでも案内します」と書かれていた。京都のお寺や庭園に興味がなかったのではなく、縁はないと思えた。
 
 1973年、テレビに時々出演していたお坊さまが大徳寺の大仙院の住職・尾関宗圓師だった。話のテンポがよく、おもしろいので名前をすぐおぼえた。手紙を書く気になったのは、大仙院、尾関宗圓師のおかげ。
針子修業は厳しく、型紙通りに一寸の狂いもなく縫わねばやり直し。休みは月に2回しかなかった。そのころ彼は宝恷s仁川に住んでいて電話した。2年ぶりに声を聴いた。阪急電車の梅田駅で10時はどうですかと言うので「OK」と応えた。
 
 京都。町家が連なる花見小路の一軒の前で立ち止まり、この家に高3の冬から春、2ヶ月下宿したらしい。大家母娘が階下で暮らし、20代半ばの同志社大学職員の娘さんは華道の師匠。時々、部屋の机に花が生けてあったという。
建仁寺に入ったが見学せず、彼は自分の体験を語った。高1のとき自閉症、拒食症にかかり休学、翌年、また高1をやり直す。それを恥じているふうでもなく、さらりと述べる。高1を2年もやれば、2年目の高1の成績は学年トップクラス、災い転じてと笑った。
 
 お昼はごちそう。懐石みたいなのが一品々々出て、本格的な京料理だった。花見小路料理屋の名は「花吉兆」。お腹は喜んでいたが、こんな歓待を受けていいのだろうか。「臼杵とお弁当のお返し」と、これくらいは当たり前のごとく言ったが、あのころの20代が出入りする料理屋ではなかった。
 
 大徳寺。大仙院で尾関宗圓さんの短い法話を拝聴した。法話というより漫談で、沿革や庭の説明を手短かにすませた宗圓師は、大仙院を訪ねた有名人の話をおもしろおかしく聞かせてくれ、拝観者の多くは大笑いした。にこりともしないで聞いていた彼の顔には、その話、前にも聞いたと書いてあった。
大仙院拝観後、大徳寺裏にある今宮神社の近くの店で「あぶり餅」を食べた。串一本の先端に小さな餅一つ刺し、炭火であぶってタレをつける。うっすら焦げめのある餅は格別の味。
 
 国東半島を巡ったとき、彼の呼び名を考えたのだが、これはというものを探せず、そのままになっていた。大仙院を出たとき閃いた、そうだ、「ふみにい」と呼ぼう。彼に告げると不服そうな顔で「花札賭博に出てくる風来坊みたいだ」と洩らしたが承諾してくれた。男兄弟のいない私にとって兄貴的存在。でも人前ではそう呼ばなかった。
 
       画像は2013年6月28日、京都府木津川市の海住山寺(かいじゅうせんじ)に咲いていたクチナシです


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