2026-01-28
花絵巻(7)
 
 「漠然とした不安(something worried)はあったけど、母が亡くなり姉とふたりきりになってから anxiety になりました」とシャーロットは言った。いつかそうなるとわかっていても、いざそういう時がきたら、憂愁にとらわれるが、支配されたくない。姉は天涯孤独じゃないと励ましてくれたが、交通事故にあって片足が不自由となった姉を支えるには体力、気力が要る。
 
 「コーヒー、お代わりしませんか?」とシャーロットは言い、笑いながら「わたし、飲みたい」と「anothe one」を追加した。バルモラル・ホテルのティールームに2時間以上いる。客はほかに一組しか残っていなかったと思う。会話はおぼえているのに、状況の記憶はあいまい。
 
 シャーロットが話題を変える。「ジョージ・ホテル(小生の宿)はソールズベリー・クラッグスの見える部屋ですか?」。ソールズベリー・クラッグス(下の画像)?、初めて聞く名だった。「カールトン・ヒルから半マイル東の断崖です」。それでわかった。宿の窓から見える。「週に3度くらい、そこでジョギングしています」。
シャーロットの家はカールトン・ヒルの近くにあり、ソールズベリー・クラッグスの歩道(画像中央)を駆け上り、頂上まで行って、崖沿い(画像右上)を下るのだという。歩くだけでも厳しい坂道。ジョージ・ホテルの部屋の窓からジョギングする人を何人か見た。走りたいとは思わないけれど、彼女のジョギング姿は見たい。
 
 ソールズベリー・クラッグスの上から臨むエディンバラ旧市街は地元の人たちにも人気があり、「眺望はラブリー」で、「緩やかな上りは散歩道として愛されています」とシャーロットは言った。ソールズベリー・クラッグスに隣接する「アーサーの王座」も話していたが、内容は忘れた。
 
 ピザハットではたらき、学費に充てる。どこからか不安が忍びよってくる。母の死から1年たって落ち込んでいた。そこへ明るい日本人が来て、目が合い、翌日も来た。「昨晩、母の声が聞こえてきました。未来のほうが長いのよ、しっかりしなさい」。
シャーロットの魅力に惹かれ2日つづけてピザハットへ行ったのだが、彼女の心模様は小生のように単純ではなかった。「心が晴れました。それで嵐が丘を差し上げたいと思ったのです」。「母の存在って偉大です。母を10とすれば、私たち姉妹ふたりで2。力の比較なら100対2。毎日、支えてくれているのに見えない。亡くなってはっきり見えるようになりました」。
 
 ウォーカー・ブラザーズの「ダンス天国」のイントロ「ラ〜、ラ、ラ、ラ、ラ〜」を陽気に、「雨を見たかい」の「Have you ever seen the rain?」を軽妙に歌う。「ダンス天国」の俗っぽさは合わないと思えたのは思慮不足。初対面の人間に明るくふるまってくれたのだ。
お母さんはいまもシャーロットを支えている。境涯を知らねば苦悩も寂寞もわからない。知らなければ何もなかったのと同じ、幸運は外にあり、しかし、カブトムシみたいにつかみあげてもらわないと。
 
 エディンバラには、レトロなものから最新式のもの、大劇場から小劇場まで、映画館が12ある。人口50万人弱の都市にしては多い。映画好きのシャーロットの話。「ミニオン・シネマという映画館はアールデコ風の設計で、開館して約60年(1999年6月時点)。400名ほど収容でき、客席は豪華な一人掛けソファみたいで、リラックスできます」。
「寝そべって眠っている人も。でも、snoreはやめて」。シャーロットが鼻をつまんで息を吐いたので、snoreは「いびき」とわかった。端正な容姿の若い女性もコメディをこなす。彼女はガーベラであり、野菊でもある。華やかさと清楚を併せもち、さりげなく自己を語り、ユーモアを体現する。
 
 英国はシェイクスピアの国、年齢、性別を問わず巷に役者、芸人があふれている。ヨークのホテルのレセプション(フロント)の女性客室係は、ロビンフッド・ベイまで車の移動時間を真顔で1時間半と言った。チェックアウトをすませて去ろうとしたらウィンクする。あとで、ぶっ飛ばしたら(一般道を100キロ)そのくらいで行けるという意味のウィンクだとわかった。
ハイランドのストーン・ヘイヴンでランチを食べたとき(伴侶、伴侶の姉)、古風な装束の若いウェイトレスが妙に人なつっこいので、一緒に記念写真をと申し出た。シャッターを切る寸前、両手を広げ、片足を上げ、鶴が飛び立つポーズになり、貴重な1枚。
 
 写真はないが、シャーロットの容貌は鮮明におぼえている。会話を忘れないのは反芻しているからだ。長期にわたって会い、語り合った友人の会話を思い出せないのは共感できなかったからだ。わずかな回数しか会わなかったのによみがえる記憶、台本のないドラマ。
 
       カールトン・ヒルからのぞむソールズベリー・クラッグス 画像の左上はエディンバラ城


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