2026-01-30
花絵巻(8)
 
 「ピクルス、食べますか?」。シャーロットが問いかける。「日本ではたまにしか食べないけど、ヨーロッパに来ると毎日のように食べます。おいしい」。
 
 英国のピクルスは酢のぐあい、ほのかな甘み、食感も好ましく、色も緑色で日本のピクルスのように漬物っぽくない。
洋食、中華の別なくレストランの料理の友。大衆レストランはテーブルに置いている。
 
 「母がいなくなって、姉がガーキン(Gherkin 小型のきうり)を漬けていました」。短いきうりをガーキンと呼ぶのか。「母はニンジン、パプリカ、カリフラワーも漬けていました。わが家の味です」。
 
 B&Bのピクルスは家庭の味、レストランより美味。小生がシャーロット家のピクルスを食べたそうにしたのが顔に出たのだろう、「香辛料にタイムは使わず、ハーブの一部と、ローリエ、コリアンダー(せりの一種)を少々。野菜はさっと下茹でします」と説明する。ますます食べたい。
 
 時計は止まっている。時間を進めることができず、過去の幽囚に捕らわれているからだ。時計の針はある時間を指したまま動かない。人は未来に向って進み、故障したときだけ止まる。壊れた時計を修理せず、手放さない者は幽囚に取り憑かれ、過去を克明に描写する。
 
 「姉とふたりきりになって、賭けなきゃと思った」。1968年、19歳だった小生は、父が死んだとき、父の目となり耳となってヨーロッパを旅しようと決意した。何かに賭ける気持ちはなかった。シャーロットが何に賭けようとしたのかわからない。厳しい環境であるがゆえに賭けようと覚悟したのかもしれない。
 
 お姉さんが交通事故にあい、ジョギングをはじめたのは、姉を支え、将来の自分に賭ける思いを強化するための体力づくりなのか。シャーロットの表情は明るく、3時間経過しても話したりない。
メディアはマラソン選手を孤高のランナーと呼ぶ。孤独は競技中だけである。家に帰れば待っている人が複数いる。シャーロットを待つのは姉だけだ。大学の友人はまもなく離ればなれになる。
 
 初夏のスコットランドの日没は午後9時半過ぎ、それでも宵の口。親しみやすさのなかに優美を散りばめるシャーロットに接するのは心地よい、近づけないのは境涯だ。経験が重なりあったとき、境涯の隔たりは消えるのだろう。
 
 6月のミッドサマー・ホリディは短い。数日後ピザハットから彼女はいなくなり、小生もあした車でハイランドへ移動する。
ティールームを出て別れ際、ポニーテイルのヘア・ゴムをはずし、髪を風になびかせるすがたは清々しく、愁いを帯びていた。それが彼女を見た最後だ。
 
 四半世紀たって、唇を噛む顔はぼんやりとしかおぼえていないが、腰に手を当てる姿は目に浮かぶ。シャーロットが子どものころ、お母さんに注意されたような生意気さは微塵も感じられず、もぎたての果物のように新鮮だった。
 
 スコットランドで見たのは、日本のガイドブック、写真集にほとんど掲載されず、旅人をとりこにするような、あるいは自慢するような風景ではない。しかし、見たものが心に刻まれ、思い出せばかならずそのときの空気の色、風が去来し、出会った人があらわれる。
追懐をかきたてる風景は、日没直後、橙色にかがやく空と、澄んだ空気が無限の広がりを感じさせるあの調べに似ている。  
 
 人はその時々の糧を現在の生活から得、未来からも得る。過去から得られる収穫は記憶だけかもしれない。記憶が消えてしまえばお終い。それでも記憶から得られる果実は豊潤で、なつかしい。

PAST INDEX FUTURE