シャーロット・ブロンテ作「ジェーン・エア」の書き出しに、幼いジェーンが挿絵のたくさんついている本を見つけて開く場面が出てくる。「英国鳥禽(ちょうきん)史」には野鳥の絵が載っていた。小生の小学校入学祝いに父は「植物図鑑」と「動物図鑑」を買ってくれた。
ジェーンの保母ベッシイが低い声で口ずさむ歌の旋律はものがなしさに満ち、「足は痛み、からだはだるい。道は遠く、山々は深い。月も出ない寂しい夕暮が哀れな孤児の行く手を阻むだろう」、「行きずりの壊れた橋から落ちても…」、中略、「…わたしには楽しい思い出がある」の歌詞にジェーンは聴き入る。
ジェーン・エアは女子校を優秀な成績で卒業し、富裕な家庭に育つ少女の家庭教師となる。そこからがおもしろくなるのだが、ストーリー解説の場ではない。ジェーン・エアの解説本によると、彼女は美人ではなく、小説の主人公は美人という定番からはずれており、恋愛の相手も年のはなれた中年男で、ハンサムではない。
ジェーンは当時の女性観、社会通念と異なり、情熱、率直、悲嘆を隠さない。作者シャーロット・ブロンテは19世紀半ばに新しい女性像を打ち出し評判を呼ぶ。
英国のみならず米国でも、美男でもない中年男に恋してもとがめられないという時代になる。20世紀末のピザハットは150年前のジェーン・エアだった。中年男がまさかと思いつつ、至高の体験とみなす理由はそこにある。しかも、ジェーン・エアはミステリアスな要素を持っているのだ。
1999年6月末、シャーロットと語り合ったのはシャーロット姉妹だけではなかった。作品の登場人物、彼女の家族について話をしてくれ、音楽に話題が移り、「英国にはグリーン・スリーブスやアメージング・グレイスなどステキな歌が多いですね」と言ったら軽くうなづき、「アメリカの軽音楽が好きです。ウォーカー・ブラザーズのダンス天国」と言った。
1960年代半ばだったか、小生が高校生のころのヒット曲。米国の音楽といえば「サイモンとガーファンクル」や「カーペンターズ」。ダンス天国は大衆向けの覚えやすい曲で、トランジスタ・ラジオでしょっちゅう聴いていた。
「ダンス天国」の冒頭「ラ〜、ラ、ラ、ラ、ラ〜」とシャーロットが口ずさむ。そこだけ聴いても彼女のリズム感、歌のうまさがわかるのだが、端正で洗練された容姿にパンチの効いた俗っぽい歌はふさわしくない。
「すいません、調子に乗って」と彼女は言った。彼女にはスコットランド民謡「アニーローニ」のほうが合う。
話の流れに逆らわず、1970年代初頭の歌「雨を見たかい?が記憶に残っています」と言ったらば、「Have you ever seen the rain? 」とシャーロットが反応する。クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルというグルーブが歌った。1960年代、70年代は軽音楽の全盛期だった。
「花絵巻」に掲載した「ジェーン・エア」表紙の絵は、「若い女性の肖像 画家の妹アナ・ハンマースホイ」。デンマークの画家ヴィルヘルム・ハンマースホイ(1864−1916)が21歳のとき、妹アナ(Anna)を描いた作品。アナは19歳だった。
この絵は現在、コペンハーゲンのヒアシュプロング美術館が所有している。ハインリヒ・ヒアシュプロングはたばこ産業で財を成し、芸術家を育成した。1902年、コレクションをコペンハーゲン市に寄贈したという。
ピザハットのシャーロットからブロンテ姉妹につながり、「嵐が丘」、「ジェーン・エア」が米国の軽音楽に。シャーロットは前日とは別の顔を、次の日も新たな顔を追加し、話し終わると端正な雰囲気をただよわせた。バンフォード・エッジにたたずむならキーラ・ナイトレイよりシャーロットのほうが絵になる。
旅は出会いである。長い歳月をへても記憶に残るのは人だ。思い出は人を美化する。美しいものに出会って体験した清々しさは風化せず色あせない。ひとりの若い女性は別の女性の影だ。消えてはあらわれる影。記憶はそうして重層化される。
行きずりの壊れた橋から落ちても楽しい思い出がある。ブロンテ姉妹が散策で通ったというハワースのブロンテの橋は読者の思い出橋だ。小さな木造の橋から足を踏みはずしたとしても、小川が受けとめ、軽傷ですむだろう。万が一になっても後悔はない。十分に生き、十分に後悔し、いつのころからか後悔するのをやめてしまった。
女性作家の描く主人公は強靱な精神力を持たねばつとまらない。ジェーンもキャサリン(嵐が丘)もスカーレット(風と共に去りぬ)も強い。陳腐を承知で作家が言いたいことは同じ、弱さを自覚しているがゆえに強くなれるのだ。
若い女性の肖像 画家の妹アナ・ハンマースホイ 1885年

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