シャーロット・ブロンテの「ジェーン・エア」英語版を読み始めて思うのは、表現力が並外れて豊かなのに文章が平易で、ところどころ英和辞典の力を借りるのはしかたないとしても、構文が難解ではなく、頭にすんなり入ってくることだった。そうでなければ読者はおいてけぼりにされる。
1845年、シャーロット・ブロンテはピーク・ディストリクトの村ハザセージを訪れる。「ジェーン・エア」構想はそのときの経験にもとずくとされる。「ジェーン・エア」は数々の逸話にふちどられ、主人公ジェーンが19世紀半ばの英国では特異な存在であり脚光を浴びる。
当時、女性が恋心を男性に明かすなどしてはならず、破廉恥とみなされていた。だがジェーン・エアは実行した。発禁処分となっても文句の言えない作品がベストセラー。ジェーンの情熱や悲嘆を誰が止められよう。
英国映画「プライドと偏見」(原作は「高慢と偏見」)のなかでエリザベス・ベネット(キーラ・ナイトレイ)が佇むバンフォード・エッジはハザセージからわずか3キロの崖っぷち。ジェーン・オースティンの「高慢と偏見」は1815年刊行され、当時のベストセラーになる。
ブロンテ姉妹はジェーン・オースティンの作品を読んでいたはずで、シャーロット・ブロンテはハザセージ村からヒントを得ようとして、想像以上のものを得たにちがいない。
バンフォード・エッジに立ったとき身のすくむ思いではなく感銘を受けたのではないか。長編小説の登場人物が次々とあらわれ、原野や谷を馬で行き、部屋から部屋を歩き出したのではないか。
作中人物は単なる構想の産物ではない。風景のなかを歩き、立ち止まり、考え、悩み、喜び、嘆く。エリザベスもジェーンも、「嵐が丘」(エミリー・ブロンテ作)のキャサリンも名前の異なる同じ魂であり、ブロンテ姉妹なのだ。
1999年6月、ヨークシャー・ムーアを見て、この風景は自分なのだと思えた。1時間以上ムーアに呆然と立ちつくし、嵐が丘はこういうところだったに違いないということのほか何も考えられなかった。
その後エディンバラへ行き、ピザハットでシャーロットに出会った。彼女との出会いが啓示であり、光明であると思えたのは、心の風景を思い起させ、自分を確認できたからだろう。
シャーロットに会って2日後、20世紀初頭の出版と思われる「嵐が丘」を差し上げる、受け取らないの押し問答で私たちはことばに詰まり、見切りをつけた彼女が、「ハイランドにもヘザーの咲くムーアがあります」と言った。
ヘザーはスコットランドの国花。夏から秋にかけてピンク色の花が咲く。「ヘザーは花の名で、ヒースはヘザーの咲く場所の総称なのです」と教わる。
秋のハイランドは厳しい寒さとなり、それでもヘザーは健気に咲きつづける。シャーロットの母親は生前、「生涯の不作」と夫に思われない娘を育てたいと言ったそうだ。「それは難しい」と思っても言えなかったらしい。
突然シャーロットは「hangnail」と言ったのだが、小生が不審顔をしたのだろう、薬指を見せてくれた。ハングネイルは「ささくれ」の意だった。走っても足は痛まないのに指が、とかなんとか言っていたような記憶がある。
ピザハットで初めて会ったとき、視線をそらさず歩みより、翌日も親近感を隠そうとせず近寄るシャーロットに好感をいだくのは当然としても、バルモラル・ホテルで待ち合わせたときも身構えるようなところもなく、気取った感じもなかった。そこがブロンテ姉妹の小説の主人公と異なる。キャサリンやジェーン・エアは相手によって身構える。
「エディンバラ大学に留学している日本人はマナーがいい。英国はマナーとルールの国と思われているようですが、日本はたぶん英国より上かもしれません」。
明治維新であなたの国から学んだのです。明治時代以前、礼儀正しさは存在していたが、公共の福祉は英国からもたらされました。英国人は先達なのです。こういう会話ができるのも英語ならでは。
夏が過ぎ、秋が来て、晩秋になるとコート姿の女性が目についてくる。コートの似合う日本人女性は少ない。学生時代、交流のあった女性のトレンチコート姿を見たのは、大隈講堂から学生会館に向う小道ですれちがったとき。
昭和45年(1970)11月半ば夜9時ごろ、街灯は暗かった。突風が吹き、コートのすそがひるがえり、はっとした瞬間お互い誰か気づいた。トレンチコートが似合うなんて思いもよらなかった。
その女性の美の源泉は天平白鳳時代の仏教彫刻である。観音菩薩が身構えたり気取ったりすれば美しく見えない。穏やかで優雅、清々しい姿に美が顕われることを仏像から学んだのだ。
古代美術に興味を示した伴侶は学生時代からどんなコートも着こなした。自分ではよくわかっていないがスタイルはいい。決め手はスタイル、そして品。スタイルがよくても品のない女性がトレンチコートを着ると娼婦に見えてしまう。
寒くなるとシャーロットのコート姿を想像する。秋のコートより真冬のオーバーコートやダウンコートを着れば似合うだろう。25年たっても可愛い雰囲気を保っているような気がする。ポスターから飛び出したシャーロットは何を話してくれるだろう。

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