ピザハットのシャーロットの母親が姉妹に命名したのは、姉がエミリー、妹がシャーロット。ブロンテ姉妹は姉がシャーロットなのだが、ブロンテ姉妹の作品を愛した母親が、最初に産まれた女子をエミリーとしたのは、エミリー・ブロンテは美しかったらしく、シャーロット・ブロンテはおしゃべりだったから、長女には美しさ、次女には健康をと思ったそうだ。
「ジェーン・エア」の作者シャーロット・ブロンテに孤高、意志力、ときおりみせる辛辣を感じ、ピザハットのシャーロットは辛辣さを感じるさせるものはなかった。
バルモラル・ホテル(エディンバラ)のティールームで3時間くらい話した。話題はブロンテ姉妹とジェーン・オースティン。シャーロットの好みはジェーン・オースティンなのだが、ブロンテ姉妹に精通しており、知らないことを教わった。
ブロンテ姉妹のふたりはブリュッセル留学を企てる。私塾を開くためにフランス語をマスターする必要にせまられたからだ。シャーロット26歳、エミリー24歳、フランス語を学ぶには遅すぎる年齢だった。
ところがブリュッセル滞在中に叔母と親友が急逝、帰国せざるをえなかった。シャーロットは再び出国するが、ヒースの原野を愛してやまないエミリーはハワースに残る。
ピザハットのシャーロットのことばが胸にス〜っと入ってきた。「エミリー・ブロンテは自分の魂がムーアをさすらっていると信じたのではないでしょうか。嵐が丘の登場人物と作者はムーアに生きた同じ魂ではないでしょうか」と小生に語りかけた。
シャーロットは、「一途に思いを寄せても結ばれるとはかぎらない。一途であるがゆえに結ばれることを拒む魂がわたしたちのなかにひそんでいるかもしれません」と言った。ブロンテ姉妹が歩いた原野はシャーロットの母が歩いた道でもある。シャーロットのまぶたに母親、ハワースのムーアが浮かんでいたにちがいない。
ブロンテ姉妹の父は牧師である。アイルランドの農家に10人兄妹の長男として生まれ、いくつかの職業についたあとケンブリッジ大に入学卒業後牧師となった。母は28歳で結婚したが、ブロンテ姉妹が幼いころ亡くなり、父は男やもめを通す。気むずかしい父であったという。
しかしブロンテ姉妹の不屈の精神は父母からではなく、抗いきれない家庭環境と、姉妹の生涯の短さを予感しているかのような知性と聡明に因るのではなかったろうか。
牧師館で私塾を開こうと募集したにもかかわらず入学者はゼロ。生活の糧を得るため姉妹は次に自費出版を試みる。ところが、わずか2部しか売れず、噂にさえならなかった。
そんな話をシャーロットは綿々と語り、「塾も自費出版も失敗したからブロンテ姉妹は書いたと思います。うまくいっていたらジェーン・エアも嵐が丘もなかったのでは」と言った。
「こんな話、退屈ですか?」。とんでもない。長いあいだ忘れていた共鳴ということばを思い出した。シャーロットはまさしくそうだった。話は簡潔でわかりやすく、生き生きして経験に裏打ちされていた。私たちは文化の同一性など求めていない、共感を求めている。やさしく潤いのある人柄、経験に基づく会話が共感を呼ぶのだ。
英国は理の国、日本は情の国と決めつけたのは日本の一部メディアである。何でも分けたがるメディアの悪習。情理あいまってどうたらこうたら言ったのは学者の一部。実態をロクに知らないからそんなことが言える。英国はドイツのような理一辺倒の国ではない。理は分析にすぐれていても冷たい。英国で出会った人々の多くは温かかった。
「ジョージ・ホテルはカールトン・ヒルの見える部屋ですか?」。見える、見える、手を伸ばせば届くほどに。「丘の中腹の沿道を走る人たちを目にしました」と言うと、「週に3度くらいカールトン・ヒルでジョギングしています」。一緒に走りたくはないが、初夏の似合うシャーロットのジョギング姿は見たい。
50歳になって現実世界で感動することが激減した。近親者は郷里にもどって久しく、家族は伴侶以外離ればなれ。年に一度会うこともない。
友人知人で感動を与えてくれた高校時代の友は消息不明。20代半ばごろだったか、自宅に連絡したら母親が出て亡くなりましたと言った。そんなこと信じられるかと半信半疑のまま50年が過ぎ去った。
人は何によって感動を受けているのだろうか。家族からか、友からか。仕事や趣味からか。小生はある時期、それらから感動しなくなった。そういうとき不思議なことに旅でめぐりあった人から感動を与えられた。思い出すのは過去に出会った人々なのだ。高齢化すると感動は秀逸なドラマからしか得られず、余録は過去を追懐してよみがえる感動である。
古色蒼然としたエディンバラの旧市街は再訪しても新たな発見があり、都会なのに心いやされる。ハイランドの人々はロウランドに住むエディンバラの人間はイングランド住民と似ており、冷静だが計算高く、合理性、効率を重視し、善意に欠け、形式にとらわれると批判する。
小生のイングランド人観と異なり手厳しい。旧市街のたたずまいとは別の顔もあるとわかったのは、老舗デパート「ジェナーズ」の紳士服売り場で買物したときだった。
綿パンを買うさい、男性従業員が「裾上げはやらない」と言うので、「どこでやってもらえばよいか」を尋ねたらば、裏にAlteration(オートレーション=仕立て直し)があると無愛想だった。地元の顧客以外に対しても冷淡なのだろう。
そうした例外がないわけではないけれど、概してハイランド地方の人々は親切で温かい。シャーロットとの出会いは啓示であり、光明だった。初めて会う人に心をさらけ出すというケースはないわけでない。二度とその人に会うことはないだろうから。シャーロットはちがった。何度会っても心を開くような気がする。
学生時代、シャーロットのような女性がいた。凡庸な女性なら言いにくいと考えるだろうことを言った。率直だった。まったく耳障りにならなかったのは、テンポがよく、明るい調子で話し、聡明さが会話に潤いをもたらしたからだ。
初めてもらったその女性の手紙に「ミスター・エアさま」と書かれていた。昭和45年11月末、三島事件の1週間ほどあと、帰省していた自宅に届き、驚きと喜びで舞い上がった。ミスター・エアの真意がわかったのはその数年後。
シャーロットはこうも言った。「子どものころ母に注意されました。くちびるを噛むとバカに見える。腰に手をあてれば生意気に見える」。子どものころはそう見えたのかもしれない、が、いまはその仕種が可愛く魅力的。そんなこと言えなかったけれど。
お姉さんは半年前、交通事故にあって片足が不自由だという。「わたしは姉の分まで歩いて、走っているの。カールトン・ヒルのジョギングを実行したのは、元気で長生きして、姉を支えられればいいと決めたから」と告げた。
知っているつもりでも、ほとんど知らなかったということを知るのが旅にほかならず、出会いを何度か経験して思い出は深まってゆく。
英語版「ジェーン・エア」を購入した。表紙の絵は彼女の面立ちを想起させる。読み終えたら彼女が愛読したジェーン・オースティンの作品も翻訳本になると思うが挑戦したい。
「 シャーロット・ブロンテ」 ジェーン・エア Oxford University Press

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