2025-08-13
花図鑑(14)
 
 明治神宮の花菖蒲園に行ったとき、「ムラサキシキブ知ってる?」と男が尋ねた。
昭和46年6月下旬だった。「7月半ばごろ花が咲いて、緑色の実は8月半ばを過ぎて紫色になるんだ、ぶどうみたいに。花は微かに平安の香りがする」。
 
 「ここにもあるのかな、ムラサキシキブ?」。「さあ、どうだろう、たぶんある」。
右の画像はムラサキシキブ。花はピンク系ふじ色。2017年7月19日 京都市下京区「渉成園」
 
 歩きながら彼が、葉っぱの形はおぼえていない」と言い、花は咲いておらず結局、ムラサキシキブがあるのかどうかもわからずじまい。
 
 その年の8月下旬、奈良でおこなわれた同好会合宿に参加し、方々でムラサキシキブを探し、岩船寺で発見した。小粒の実は美しい紫色だった。
 
 男は小学校入学祝いに何がいいと父親にきかれ、植物図鑑と動物図鑑とこたえたそうだ。
自宅敷地内に祖父の畑があり、野菜、果物(ビワ、イチジク)のほかに四季の花も植えられていた。炭小屋とニワトリ小屋もあったらしい。
 
 徒歩5分で神社へもお寺へも行ける。そこには小さな森がある。クヌギの樹木から出る樹液はカブトムシの好物。自宅で観察し、昆虫の生態も植物の生長も熟知している。自然環境になじんで育ったから感性も豊かなのか。
トンボやチョウの視野は270度くらいなので、捕獲するときは真後ろからでないと難しい。カブトムシは目がわるく、動きもおそいから簡単に手でつかまえられる。聞かなければ話さなかったろうことを手短に話す男の目はかかがやきを増す。
 
 花と果物に関しても詳しく、いや、詳しいというより好きで、彼と暮らせば花と果物は毎日欠かさないと思えた。果物を好むあたしは歓迎します。進む道は植物学、あるいは華道。学者になれるまでほぼ無給の生活、なっても薄給。親がいつまでも生きているわけでなし。
 
 男の顔も思い出せないほどだったのに、60代半ばを過ぎ、70代にさしかかるころ忘れていたはずの会話がよみがえってきた。記憶を封印していたのではない、まさによみがえったのだ。
平安の香りってどんな香り?聞いておけばよかった。具体的に花の名をあげて説明してくれたろう。鼻を近づけムラサキシキブの匂いを嗅いたが、匂いはほとんどなかったぞ。嗅覚の差なのか。ムラサキシキブなんて都市部の公園にはなく、古い寺社や郊外のハイキングコースを歩かないと見つからない。
 
 果物は初夏から盛夏、イチゴ、モモ、ビワが好きだと言っていた。初夏になるとイチゴを買ってきてくれた。おいしかった。モモもビワもデパートにいいのがないと言い、銀座の千疋屋で買ってきてくれたビワは大きくて甘くて、格別だった。モモ、スイカ、ビワ、夏は果物が美味。若いころのように四季で夏が一番と思えなくなったが、果物は夏にかぎる。
 
 夫が亡くなって24年たつのに主婦の倹約精神が抜けず、高級フルーツはめったに買わない。ことしのお盆は飛びきり上等のモモを買ってお供えしよう。ウィスキーの好きな夫にフルーツは合わないけれど、代わりにあたしがいただきます。
 
     渉成園は東本願寺歴代門首の隠退所でした。敷地は縦横200メートルの正方形。
      JR京都駅から徒歩10分。さまざまな植物、昆虫が棲息しています。

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