2025-08-10
花図鑑(13)
 
 交流が始まって数ヶ月たち、男が語った幼いころの思い出。夜、ふとんのなかで密かに泣き、左右の目からこぼれる涙が、鼻筋がまだ通っていないために移動し混じり合う。その話で距離感がいっぺんに縮まった。
 
 どんな子どもだったか知りたい気持ちを察して、小学生時代の経験を生き生きと語ってくれた。3歳くらいで初めてエレベーターに乗ったとき、自分が下がっているのに、外に立つ人が上がっていると錯覚したこと。
小学校2年と3年の夏休み、ひとりで年のはなれた従姉夫婦が暮らす吉野過疎地区の借家に居候したらしい。借家は昆虫の宝庫の森に囲まれ、午前中はカブトムシ、クワガタの採集、午後はすぐ前の吉野川上流で川遊び。
 
 大阪から国鉄・福知山線を走る蒸気機関車に乗って初めて鳥取へ行ったという。福知山線が山陰線に接続、余部(あまるべ)鉄橋をわたる。未体験の高さ(41メートル)の鉄橋は、窓から顔を出すと列車が落ちそうなスリル感に満ち、ドキドキしたらしい。
 
 男が余部鉄橋の思い出を語った15年後の1986年12月、落下の恐怖感は現実となる。福知山発浜坂行きの回送列車が鉄橋を通ったとき、風速33メートルの突風が吹き、客車7両が転落、民家と水産加工場を直撃し、車掌1名、加工場の女性従業員5名が亡くなった。
 
 余部鉄橋を通過する列車は風速25メートル以上の場合、運行中止になる。鉄橋に自動風速計が設置されており、風速25メートルになると制御装置が作動し赤いランプが点灯する。点灯すると警報器が作動し、遠隔装置で列車が止まる仕組みになっている。機器は正常に作動していたらしいが、結局人為的ミスが大事故を起こしてしまう。
 
 1986年12月、テレビ報道で惨事を知り、記憶から消えたはずの余部鉄橋がよみがえった。子どものころ鉄道を利用して鳥取へ行っていた彼は、1975年ごろ中国自動車道が延長され、4時間かかっていた(列車でも車でも4時間)行程が3時間に短縮されたのを機に鉄道を利用しなくなったはずだ。
と思っても、1986年12月、余部鉄橋から列車が転落したニュースをみたときドキッとした。1995年1月、阪神大震災のときも、2005年4月、JR福知山線脱線事故のときも犠牲者の名前を目で追った。
 
 男は生まれも育ちも関西なのに標準語をしゃべった。父親は鳥取、母親は北海道出身で家庭内で関西弁を話さなかったらしい。祖父母も同居していたが関西弁を使わなかった。
いつだったか急用ができて、渋谷の下宿のピンク電話にかけて男を呼び出したとき、受話器をそのままにして下宿人の誰かと関西弁で話した。それが耳について離れない。しばらくたって、「あなたの関西弁は大嫌い」と男に伝えた。
 
 そこで何を言ったかといえば、「怒っても陰気にならないところがいい」、「不機嫌になっても陽気だね」。言われてみればたしかにそうかもしれないけれど、肩すかしを食わされて余計にムカっときた。
 
 銀座・並木通りの「風月堂」で初めて会った母親は標準語だった。息子が好きになった女性はこの人かという表情をしたように思う。そうです、こういう女です。
息子さんはどんなお子さんだったのですか?と聴きたかった。子どものおもしろさに較べればおとななんてたかが知れている。病弱でなければ、どんな子どもでもおとなより生き生きしている。そういう意味で子育てはおもしろいと思えた。どういう反応を示すか読めないのだ。
 
 再会時、彼が窮地に立った直後、「フミオさんは負けず嫌いだからだいじょうぶです」と彼女に言った。後に母親はあたしのことを「逆境に強い」と言ったそうだが、あんなの逆境に入らないよ。
 
 たいていのことなら耐えられる。耐えられないのは、愛が衰退しているのではと感じたり、気持ちがほかの女に移っているのではと邪推するときである。
思い過ごし、もしくは錯覚なのだが、焼き餅を焼くと耐えられなくなって男にぶつける。「あたしがそうなるとわかっていて嫉妬させるんでしょう!」。唖然とする顔を見て妙に安心した。53年も前なのに、よくおぼえているものだ。
 
 ちかごろバスルームに入った瞬間、不意に記憶の断片がフラッシュバックする。二尊院山門前、東大寺三月堂へ至るゆるやかな坂に沿う土塀。海外旅行中、タクシードライバーと交わした会話など。二尊院山門前はくりかえし点滅する。
 
 追想がよぎると美術書や紀行文を拾い読みする。テレビ番組をみて訪問した場所が出てくると懐かしい。過去の蓄積が多いほど懐かしさは増し、家事と育児に追われていたころ追懐しなかったことを思い出す。花は枯れても思い出は枯れない。
 
          2015年7月3日 京都市山科区 勧修寺(かじゅうじ)


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