2025-06-08
花図鑑(12)
 
 別れは突然やって来た。交流がはじまって1年ほどたったころ、漠然とした不安がよぎったことはあったけど、喧嘩もしたけど、それでも4年半にわたって続いたのはお互いを大切に思う気持ちにゆるぎがなかったからだ。
 
 別れるなんて考えもしなかった。あの男が衝撃的な行動をおこした理由はわからない。心を鎮めるために手紙を書き投函した。「もう愛していないのですか」という文言は一生に一度でたくさん。
別れを言えない男の気持ちはわかっても、最後のあいさつもできないというのが気にくわない。愛情が深ければ後悔も深くなる。彼は後悔していないのか。気持ちを整理できず心は晴れなかった。ふんぎりをつけるまでつらい日々がつづいた。へこたれるなと自分を励ました。
 
 はじめて自宅に招待した4月、浦和の花屋で買ったとマーガレットの花束を持ってきた。部屋から出てきた妹の驚きようったらなかった。リビングにもあたしたちの部屋にも、バスルーム洗面台にも飾った。暮れなずむ春の日、夕日が射しこみ、マーガレットは踊り、落日を惜しむ白い花を見ながら時を過ごした。
 
 6月、渋谷の花屋にあったと鉢植えの桔梗を持ってきた。水やりは陽の当たるベランダに置くなら朝、日陰なら午後、毎日と言った。午後は留守にすることが多いので朝しかやらなかった。それでも桔梗は秋まで咲いていた。
「脚がきれいだね」と言ってくれた。「きれいなのは脚だけ?」と笑いながら問うと、「特に脚がという意味だよ」とあわてて継ぎ足す。押し入れに立てかけていた全身鏡を久しぶりに出すと、妹の顔にハテナマークが書いてあった。
 
 男が去っても影を追わず、心を切り替えるための最善の方法はできるだけ早く家庭を営むこと、そして愛しすぎないこと。だが子育てするうちに愛しすぎないという決意がいかにもろいか知った。同居家族への思いは特別だった。でも、子どもたちがそれぞれ独立して、夫に先立たれてわかったことがある。
 
 あの男と過ごした時間は特別だった。喧嘩して会わなくなって1週間か10日たった日、会いそうにない場所でばったり会った。まるでどこにいるか知ってるかのように。夕食にあたしが何を食べたいのかを見透かしたようにレストランと料理を選んだ。
 
 あたしたちにしかわからないことばで語り合った。抽象的とか難解とかではない、家族や自分自身を語るのだが、天空に向かって飛ぶチョウのようにひらひら素早く、時に華やかなことばが次々飛び出す。。それまで使ったことのないことばのフレーズをクチから出まかせに編みだせた。
あたしがことばを操るのではない、ことばがあたしを操った。男はことばの背景も、心の持ちようも理解した。それはあたしの人生を理解していることにほかならない。
 
 あの男と家庭を持てば喧嘩と仲直りのくり返しなのに夫婦仲がいいと思われるだろう。喧嘩してもすぐ仲直りし、他人はあたしの不機嫌な顔を見ないですむから。
 
 男と4年半もつきあっていたのに、腕を組むことも手をつなぐこともなかった。人前でそういう動作を控えたのは互いの意思だ。そういう関係によって新鮮さを保つことができた。恋愛中の男女なら手をつなぐのが自然だとしても、月並みな行為に抵抗していたのかもしれない。
 
 密接な間柄になるまで時間がかかった。お互いを支え合い、熟知したのだから踏み込んでもいいと思えるまでの時間は長い。だが、互いを尊重し築き上げた関係でも、こわれるときはこわれる。
 
 愛より自由を選んだ男が愛を優先させるとすれば、その人でなければ生きてゆけない、何ものにも代えがたいと思える相手の場合だけだ。その女性を失うかもしれないと思えたとき骨の芯まで凍えるかどうか。凍える体験をすれば、犠牲がどれほど大きくても阻止するだろう。窮地に立たされても後退はありえない。
 
 あの男のことだ、さまざまな場面で選択を誤ることがあったとしても、伴侶の選択は誤らないだろう。性格は明るく穏やかで、他者にやさしく、夫に尽くし、容姿も整い、料理の腕もいい。
 
 夏が終わろうとしていた。「シャボン玉しようよ」と言ったらば、「どこがいい?」と言うので、「小さな公園」とこたえた。秋が来て、冬になり、男の身辺に不穏な空気が流れ、短い春が過ぎるころ、あたしはインド行きを決めた。帰国して下落合のマンションを訪ねたらシャボン玉のごとく消えていた。空を映し、虹を取り込み、つかのま漂って、あっけなく消える。
 
 枯れて朽ち果てるよりシャボン玉のほうがマシと思えるのは、高齢となって何もかもが衰え、数ヶ月先のプランを練ることはできても、未来を描けなくなったからだろう。
憎悪に占拠されていたら花を咲かせることはできなかった。男の顔はぼんやりとしかおぼえていない。マーガレットや桔梗を思い出す日々を過ごしている。
 
        妙心寺・退蔵院の桔梗  2015年7月3日


PAST INDEX FUTURE