いまはもう見られないか、見るとしてもきわめて少ないと思うことの一つが宿泊先のホテル従業員(フロント係かベルボーイ)による品定め。上から下までジロリと見られて感じがわるく、そういうスタッフのいる宿は2度と予約しなかった。身だしなみがきちんとしていても、こういう連中は無礼を表面に出す。
彼らは特に足もとを見た。ホテルのスタッフは靴を見て品定めをする。A〜Cのランクをつけ、身なりがよくてもボロい靴を履いている客はC、服装が整い、手入れの行き届いた靴を履く客はA、中間はB。ホテルに勤務すると先輩からそう指示されるのだという。
品定めという言葉の響きも気に入らないが、そういうことを評価の基準にする人間も気にくわない。初対面の評価は直感的に決まる。気品、物腰、みだしなみ、清潔感が印象を左右する。
服と靴を見て品定めするホテルのスタッフは三流だが、慇懃無礼は時間の経過とともに減った。それでも残党はいる。古生代の三流生物は絶滅する近未来が望ましい。
高校時代、同級生女子がA、B、Cと言っていたのは、Aは手をつなぐ、Bはキス、Cはそれ以上と記憶していたが、バカみたいなことでも懐かしく、彼女たちの顔が浮かぶ。経験不足の女子が仮想の男女を見立てて繰り出すたわごと。時が移るとBがそれ以上でCは妊娠になっていく。顔も見られず中高生が避妊具を通販で買える時代。
まともな昭和の女性が男を評価する基準は誠実さと熱意だった。あいまいな態度の男は遠ざけられる。誠実だが熱意のない男も、熱意はあっても誠実でない男も突き放された。
熱意と率直はあの男の特長。映画「ひまわり」をみたとき映画の話になり、「好きな女優は?」と尋ねると即座に「香川京子」と返ってきた。意外そうなあたしの顔に気づいたのか、「ひまわり」のリュドミラ・サベーリエワ、きれいだったとつぶやく。「白人女性はチーズの臭いがして苦手」とも言った。体臭はいつ、どこで感じたのだ?
昭和46年(1971)、文学部の同期で同じ同好会に所属していた女性2名とあたし、計3名で韓国に行った。旅の2日前あの男とデートしたが、旅行の話は一切せず、次回は10日後、あたしの家で会うことにした。父が日本化薬・研究所勤めのため高崎の社宅住まいで、母もほとんど社宅にいる。母が浦和に来るのは月一度、2、3日で帰る。ふだんは妹と二人。
帰国して旅の写真を男に見せた。黙って見ていたが、韓服ではなくチャイナドレス姿の女性3人を見たところで目がとまった。腿の近くまでスリットが入っている大胆な衣裳のせいか、やるじゃないという顔をした。「貸衣装?それとも買ったの?」と男が尋ねる。
「買ったよ、記念に」。「この恰好で学館に来てもらえないかな」と言うので、笑って「それはないでしょう」と返す。サーカスの宣伝パレードじゃあるまいし、見世物にされてたまるか。大切なガールフレンドのチャイナドレス姿を見られてもいいのか!
アルバムを見ながら男が「ミコちゃん、見たよね?」と聞く。妹にはまだ見せていなかった。「ミコちゃん、一緒に見る?」とドア越しにあたしが声をかけたら、「いま勉強中、あとで見る」と返事する。ミコちゃんは一浪で来春の受験をめざしていた。
梅雨の時期は好きになれない。傘をさして水たまりをよけながら歩くのは苦手だ。スピードが鈍るし、靴が濡れる。濡れた靴の感覚が身体に伝わって不快になる。雨の日のひとり歩きは避けたい。
通学の復路はJR京浜東北線の浦和駅で下車しバスに乗る。10数分でバス停を降りるのだが、停留所はうらさびしい場所にあり、住宅地まで200メートルくらい歩く。男と交流がはじまり、映画の帰りは夕食のあと有楽町で別れ、彼は渋谷へ、あたしは浦和へ。
ドライブの帰りはほとんど深夜だった。6月初旬、バス通りから家へ向かう小道のアジサイが月明かりに照らされ、昼間見るのとちがって妙になまめかしい。
奈良を回っていたとき岩船寺でアジサイを見た。三重塔をバックに咲くブルー、紫、藤色、赤。ピンクのアジサイ。岩船寺は京都府木津川の加茂町にあるが、奈良駅からのほうが近い。関西花の寺・第十五番。あのころ(1970年代)、アジサイ最盛期でも人影はなかった。
アジサイが雨の日に映えるということはあたしも承知している。葉に丸まっている雨粒は楽しそう。アジサイの花と葉がお互いを引き立て、空が雨粒に入りこみ、雨粒はころがり落ちそうになるのを我慢している。梅雨が明けるとアジサイは枯れて雨粒も消える。太陽が好きで、雨も好きなアジサイ。
夜の雨の音をききつつ手紙を書いていると思い出す。書く相手がいなくなると自分に向かって書き、いつまでたっても投函されない手紙。
固定観念にとらわれず、経験を重視し、言葉を濁さずはっきり言うのが彼の真骨頂だった。雨の音にまじって男の声が聞こえる。「リセットしてもきりがない。同じようなことやってるよ、どこにも届かない手紙書いて」。
2014年6月13日 大和郡山 矢田寺

|