2025-05-12
花図鑑(10)
 
 昭和46年(1971)ごろ、あたしたちの行く先々に人影はなかった。5月下旬、明治神宮の森も人はいなかった。新緑は清々しい。新鮮な空気を胸いっぱい吸うと何かしたくなる。
明るい時間にいちゃつくのはあたしの流儀ではない。ところが参拝して両親の無病息災を祈った敬虔な気持ちは人影のない菖蒲園で吹き飛んだ。花の名所で淫らな気持ちになるなんてバカじゃなかろか。
 
 卑猥を微塵も感じられない男の笑顔に釣られて頬がゆるむ。最初で最後かもしれない蜜の味。一瞬の出来事でもつなぎ合わせると永遠になる。森の奥にいると静寂が聞こえる。鳥のさえずりが止まっても続いても、束の間の静寂はあたしたちの影なのだ。
 
 名優は秀逸な作品に出会って真価を発揮できるという。名優でもないあたし、秀逸でもない男のひとこまは、新緑が陽光にかがやく一瞬、映画のワンシーンのようによみがえる。
 
 浦和市内の女子高に通っていたころ、青梅へ行った。JR中央線「立川」駅で奥多摩方面へ向かう電車に乗り換え、「青梅」駅で下車。立川からの所要時間は30分か35分くらい。梅でも桜でもない季節。中間テスト後の6月上旬だった。新緑の色が深くなり、ずいぶん山奥に来たものだと思った。
 
 高校時代、所沢から1時間以上かけて通学する同級生がいて、何度も誘われ断り切れず狭山公園へ行った。西武園駅で降りたような記憶があり、駅が所沢(埼玉県)か東村山(東京都)かわからず彼女に尋ねた。
 
 5月半ば、狭山公園なら大学から家までの距離に少し上乗せする程度だし、緑もきれいだろう。「狭山、行かない?」と男に水を向ける。
所沢市街地まで約35キロ、そこから道幅は極端に狭くなり道路標識が消えた。前進しては行き止まり、Uターンして別の道を走る。2度くり返したらダムの巨大な壁に阻まれ、狭山公園到着は2時間半後。ドライバーもナビゲーターもしょげて沈黙。日が暮れそうなので公園散策は省略し引き返す。
 
 空きっ腹をかかえて走り続けるのは避けたい。男は、「途中にドライブインがあった」と言う。ドライブインではなく中華料理店だった。中華だろうが東南アジアだろうが、お腹の足しになるなら何でも。五目焼そばを注文。おいしかった。
 
 それから1ヶ月ほど経ち、狭山迷走ドライブの敵討ちをしようと意見が一致、青梅街道のドライブはどうかと持ちかけたら、「いいよ。青梅まで70キロ弱か、2時間はかかる、出発は9時半か10時」と男は言った。
青梅西奥の奥多摩湖まで行った。道は途中から田舎道となりガラ空きで、車に乗りっぱなしだった。奥多摩湖は森に囲まれ北欧に来たようで、車中にいても澄んだ空気のいい匂いがした。お昼をどこで何を食べたかも、歩こうと言って歩いたはずなのに思い出せない。
 
 男との交流を絶つのは食文化を失うに等しかった。食を知識、教養としてでなく実践で積み上げてきた男は、都内の有名レストランへ連れていき、珍しい料理を食べさせてくれた。
 
 4年半の交流途上、漠然と別れを予感しつつ一緒に暮らしたいと思って男の職探しをはじめた。その矢先、考えもしなかった結末に心が折れそうになったけれど、運が強かったせいか早期に立ち直り、感謝をこめて訣別の手紙を男に送った。
 
 心を整理し、家庭を持ち、子育てに追われるころ憤りの炎は鎮まった。森で道に迷い、残り火が燃えているのに探せない。探す値打ちなどなく、探す気もなかった。気づいたら50年過ぎていた。
 
 寂しさも避けたいし賑やかも避けたい、孤独を求めるのに孤独から逃れたいのが男との共通点だった。わけもなく細川ガラシャの歌が浮かぶ。「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
 
 男は当時、三十六歌仙のひとり凡河内躬恒(おうしこうちのみつね)の歌について話していた。百人一首の「心あてに 折らばや折らむ初霜の おきまどはせる 白菊の花」もいいけど、古今和歌集の「世を捨てて 山にいるひと 山にても なほ憂き時は いづち行くらむ」はユーモアに満ちて楽しいと。
 
 経のかわりにスマホを持つ僧侶がいる昨今としても、心に闇を持つ人間は少なくないだろう。10代後半から20代前半にかけて、闇を持ちつづけるかもしれないという強迫観念にかられながら、男が苦境に立たされたとき力になりたいと思った。
力になれたかどうか疑わしい、が、彼は間違いなくあたしを支えていた。彼を支えることができたとすれば、そうすることによってあたし自身を救ってきたのだ。この世は束の間だ。花は枯れて咲き、図鑑になる。人は思い出になり、思い出は命あるかぎり咲いている。
 
             
             兵庫県三田市 永沢寺(ようたくじ)の花菖蒲 2011年6月23日


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