2025-05-03
花図鑑(9) 
 
 いつのころからか青もみじが好きになった。京都や奈良のお寺でみる青もみじの美しさは格別。
 
 暦が5月になって思い出すのは、昭和46年、貸切状態の明治神宮の森でみた青もみじ。空気のおいしさは忘れがたい。
 
 学生時代、奈良で合宿、自由行動日ひとりで歩いた晩夏の明日香。
 
 夕食に間に合うよう帰路についたものの、朝が来れば奈良と別れなければならない。日が西に傾き、脚が途方に暮れた懐かしい日々。
 
 束の間の交流は形に残るものを与えてくれないけれど懐かしさを残す。4年半の交流で何度も喧嘩した。しかし傷つけ合うことはなかった。傷ついた自分を想像することもなかった。
 
 しみったれた男と、自信のなさ丸出しの男はつきあってられない。自信のない男は交際を続けることも逃げることも躊躇し、中途半端なままウヤムヤにして後悔する。自信を持てるよう尽力しないのだろうか。
そういう人間は、前進しても、逃げても結局は失うのではという意識が先走り、行動もせず、勇気がないとみすかされる。時として思い切りよく逃げるのは矜持を保つためだ。失うのではない、得るのである、自分を。
 
 「しみったれ」はお金があるのにケチ臭い。お金の貯め方は知っているが使い方を知らない。不意に浮かぶ両親の顔。両親は金離れも気前もよく、人望もあった。両親の姿をみて、しみったれにだけはなりたくないと思った。
 
 言葉では言えそうにない「さよなら」を手紙に書いて投函したのだが、さよならの四文字にあの男は何を見るだろう。「あずさ2号」(狩人)の歌詞、「さよならは いつまでたっても とても言えそうにありません」。「さよなら」は自分自身と訣別するため言わざるをえなかった。そして話の尽きる日がやって来ても思い出は続き、あの日に帰る。
 
 昔の歌手はよかった。シンプルな歌詞でも口先で歌わなかった。心が伴わない歌は聴いていられない。ドラマも同じ。鼻歌じゃあるまいし、気持ちの入っていないせりふを言うならマネキンの口に合わせて音声を流せばいい。
 
 東京、大阪などの大都市を基準に物事を判断する人間はつまらない。バスが1日に3本しかないとか、コンビニがないとか、取るに足りない問題をあげつらう。過剰を必要としない場所に過剰を求め、過剰が感性を妨げることに気づかない。未知の世界のスペースは広く、奥行きがある。
 
 学生時代、あの男もあたしも紅茶党だった。汗ばむ季節になると彼はアイスコーヒーをたのんだが、あたしは熱いレモンティー。昭和47年秋、パキスタンとアフガニスタンを旅した彼は、「むこうの紅茶はミルクティー。紅茶とミルクが半々。おいしいよ。英国の遺産かな」と言った。
 
 撮ってきた写真をアルバムにして見せてくれたけれど、あたしが写真の説明を求めなかったせいか旅の話はしなかった。
写真は、パキスタンのカラリ博物館、ラホール博物館、ペシャワール美術館、スワート博物館、アフガニスタンのカブール博物館(当時はカーブル)のガンダーラ仏。
「写真、借りていい?」と尋ねたら、二つ返事でOKしてくれた。東洋美術史科修士課程の卒論用の台紙に写真をべたべた貼りつけ、青インクで仏像の説明を書き添え、そのまま彼に返した。まだ持っているだろうか。
 
 昭和48年7月、あたしはインドを旅した。ミルクティーの味を気に入って、朝食はかならずミルクティー、午後のコーヒータイムもミルクティーを飲んだ。ベナレスで絵はがきを探したのだが、いいのがなくて結局、彼に手紙を書いて投函した。それが最後になるとは。
 
 帰国後、下落合のマンションに合い鍵で入った。流し台に生活のようすは感じられず、冷蔵庫に買い置きの野菜、卵、ハムなどもなかった。実家に帰るとは言ってなかったし、旅行の計画があれば話していたはず。どこへ行ったのか見当もつかない。
 
 結婚し、子どもが生まれ、何年か経った昭和56年(1981)、あの男が昭和48年夏にインド、同年秋にモロッコにいたと風の噂で知った。マンションにいたのは9月のわずかな時期だったのだ。
 
 「抱きしめるといつも君は洗った髪の香りがした」(昭和56年 郷ひろみ「哀愁のカサブランカ」)。彼の身体は粉石鹸の匂いがした。洗濯機はあるのに使わず、下着を粉石鹸でもみ洗いしていたからだろう。すすぐ回数が足りないよ。匂いの記憶は残る。
 
 「風吹く胸がさがしてる 君のため息」近いインド、遠いモロッコ。

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