「来月、指宿に行く」と男は言った。「鹿児島にも寄るの?」と尋ねたら、「うん、1泊目は指宿、二泊目は鹿児島」と言うので、「薩摩焼、買ってきてくれる?」。「いいよ」。
湯飲みか小皿のつもりで軽く言ったのだ。男が買ってきたのは黒薩摩ではなく、白薩摩の大きな壷だった。
予想がはずれたあたしを見て男は、「もしかして白じゃなく黒?」と尋ねたが応えなかった。驚きと戸惑い、喜びを一瞬で見ぬかれ、応えなくてもよかったから。
こんな大きな壷を旅先から持って帰ったのか。立派で高価な花鳥図の白薩摩は一点もの。おそらく自分で運んだのだろう。
見栄っぱりの大盤振舞には閉口するけど、気前のよさに対しては、申し訳ない気持ちもあるが歓迎です。
日比谷や京橋の映画館で外国映画をみること機会が多かった。ほとんどはよくできた作品だったが、ごくたまにつまらない映画もあった。おもしろくなければあたしの顔にも彼の顔にも書いてあった。駄作を創った製作者と、一般公開した興行主に対する不満はクチにしなくても互いの目にあらわれるのだ。
そういうときもそうでないときも景気づけに帝国ホテルのカフェでババロアを食べ、銀座一丁目の「イタリー亭」でカネロニかラザニアを食べる。一緒にいるとなぜか食欲をそそられた。
イタリー亭の野菜サラダは特大で、4分の1に切ったトマトが6個くらい入っていた。あふれんばかりのレタスやキウリを盛った爆弾サラダ。これ一皿ですませる野菜好きにうってつけ。大食いのあたしでも彼とシェアしないと食べきれない。
お腹の空きぐあいがわかるはずがないのに、いくら何でも5時や5時半は早すぎると思いつつ黙っていても、彼は、「早めの夕食にしようか」と言う。いちおう「早いけどね」と応えるのだが、お腹はせかせる。心を読まれるよりお腹を察してくれるほうがいい。
母校・文学部前の通りを渡った角に「満腹亭」という大衆食堂があった。丼メシが大盛りで、もりもり食べる男子学生御用達。女子が避けていたのは、大食いのレッテルを貼られるからだろう。あたしも避けたが、在学中に一度は経験すべきだった。
男と別れ、間もなく結婚し、映画や観劇から縁遠くなってしまった。男は観劇しつづけ、10代で知り合った同年の女優が松山政路の配偶者となったのが縁で、「セイジさん、フミオちゃん」の仲となり、松山政路の楽屋で将棋を指していたという。
「山彦ものがたり」(脚本 有吉佐和子)の楽屋で尾藤イサオ、別の舞台の楽屋で中条きよし、中島久之、喜味こいしなどと会った。楽屋のトイレで大声で歌っている人がいて、扉を開け出てきたときのバツのわるそうな顔がおもしろかったらしい。萬屋錦之介だった。
喜味こいし、尾藤イサオはまったく気取らず、人柄抜群で好感を持てたそうである。「ふみおちゃん、知ってた?尾藤さんは昔、曲芸やってたんだよ」。知らなかった。尾藤イサオの歌詞に男が重なって見える。「誰のせいでもありゃしない、みんな俺(おい)らが悪いのか」。
「山彦ものがたり」は動きの激しいシーンが多く、役者は体力勝負と感じずにいられない。10代で曲芸師となった尾藤イサオは米国を1年間巡業した。
歌手となって活躍していたころ、長くて重いマイクスタンドを片手で持ち、何度も回転させた。アクション歌手のさきがけ。彼のバックバンドは後に「ブルー・シャトー」(1967)をヒットさせるブルー・コメッツ。尾藤イサオの芸に賭ける熱意が人の心を動かす。
あの男の熱意はあたしを完全燃焼させたが、子育てをしているうちに残り火は消え、1枚だけあった写真もなくしてしまった。12月、マーガレットの花束を持ってきた。夜、雨の音を聴きながら白い花をぼんやり眺めた。雨は静かに語る、花びらの奥に命があり、再び生まれ変わるのを待っている。
3月、卒業式後、大隈会館での謝恩会に行く前、正門近くで渡されたバラ20本。かかえきれないローズレッドのバラを見て文学部同期の女性から「ステキね」と言われた。夫の死後、花のように生きてこられたのは、思い出があたしを美化してくれたからだ。至高の体験だった。
加齢と共に感覚が鈍った。五感のなかで視覚、触覚が特におとろえ、このまま推移すれば昔日の記憶も薄れてゆくだろう。そうなる前に書かねばならない。男の顔を忘れ、思い出の品も失い、奇跡的に白薩摩の壷だけが残った。
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