2025-01-08
花図鑑(5)
 
 かかりつけの歯科へ母が行ったとき、診察室のドアが半開きになっており、診察台に仰向けになっている同年代の女性を見た。イスをリクライニングする治療しか受けたことがなく、気になって眺めていると、女性の表情がうっとりしている。あれは好きな男の愛撫を受ける前の顔だ。
 
 ベッドに横たわっていると、いつのころかわからない恍惚シーンを患者は思い出したのだろう。母は、誰に見られるか知れたものではない、診察台に仰向けになっても絶対そんな気分になってはいけない強調した。そんなことを言っても母さん、ふつうそんな気分にならないよ。
 
 母は53歳で亡くなった父を心から愛していたと思う。学生時代、母と同じ同好会に所属し25歳で結婚したので延べ35年の交流があった。
父が生きていたころ感じなかったことだが、母は21歳から24歳半ばまで交際していた別の男を時々思い出しているのではないか。無惨な別れ方をして顔も名前も記憶から消したはずの男。
 
 母が父の運転するスカイラインGTで三浦半島へドライブしたのは22歳、大学4年のころで、車にはほかに同好会同期の男性1人、女性1人が乗っていた。道路から見る稲村ヶ崎が強く印象に残ったらしい。
相模湾越しに富士山を眺めたのは、関西勤務のため奈良の借家で暮らしていた両親が母の妊娠を機に練馬区の建売を購入、引っ越し直後に出産、ゼロ歳の兄を伴って鎌倉方面にドライブしたときだった。
 
 大学卒業後、父は就職先企業の大阪支店勤務となり、西宮市仁川百合野町の独身寮にいた。知らぬが仏、男は当時、寮から川を隔てた目と鼻の先のマンションに引っ越した。父は昔から母に惚れており、母が京阪神へ遊びにきて、奈良の仏像を拝観したあと新幹線京都駅へ母を送り、父がホームで握手をもとめた。
軽く手を握ったときのふんわりした感触は天にも昇る心地よさで、一緒に暮らすならこの女性しかないと後年、母に語ったそうである。
 
 母の若いころの話は叔母(母の妹)から詳しく聞いた。そのころ交際していた男と頻繁に会って、帰りは午前零時過ぎになることが多かった。祖父は自宅から遠い研究所にいて、祖母も父のそばにいて、たまにしか祖母が帰宅しないのをいいことに門限破りの連続。
 
 あたしは当時一浪中、勉強していたからいいようなものの、深夜に帰って風呂をつかい、どたんばたん音を立てれば、自分は静かにやっているつもりでしょうがやかましい。母はどんなに遅くなっても朝早く起きていたらしい。叔母が寝こけていても、「朝だよ、起きなさい」と叩き起こされた。
 
 ある日、彼を家に上げ紹介された。日焼けした顔が笑うと妙に歯が白かった。次に来たのは12月初め午後1時ごろ、寒い日だった。料理をこしらえてくれるという。
母はニンジン、タマネギ、リンゴだけ買い、彼がヘレ肉ブロック、ベビーオニオン、マッシュルーム、赤ワイン、デルモンテのトマトピューレを持ってきた。ヘレ肉は上等すぎてダシがでないという言葉を母は飲み込み、むりやり彼にエプロンを着せる。
 
 みじん切りのタマネギ1個分をフライパンでいためる。最初は強火で、タマネギに火がとおると、とろ火。きつね色になるまで根気よくいためる。みじん切りにしたあと何もすることのない母は男にちょっかいを出す。
「じゃまだから、あっち行っててくれないか」と言われおとなしくしたものの、エプロンの端をひっぱっても男に無視され、うしろのヒモを引く。蝶々結びなのでヒモはほどけ、エプロンが落ちそうになって男が叫ぶ。「やめてくれ」。
 
 ドア越しの会話が気になって用もないのにようすを見に行くと、母がうしろから男に抱きつき、男が振り払うところを見てしまった。さすがの叔母もムッときたらしい。バカじゃないの。
 
 バツのわるい母は男に言われ、ニンジンとジャガイモを5センチX2.5センチにして大きさをそろえ、面取りに着手。勉強なんかやってられない叔母がトイレに行くふりをしてドアを開けたら、男が胡椒と塩で下味をつけ、小麦粉をまぶし薄化粧させたヘレ肉をいためていた。
小麦粉でコーティングするのは肉のうまみを閉じ込めるからだ。そこでまた母が横からクチを出す。「小麦粉は焦げやすいよ」。すかさず男が言う、「きつね色になるまでやるから」。
 
 コンソメ2個を800mlの湯に溶かし、月桂樹を入れた鍋に肉を放り込み、赤ワインをたっぷり流し込み、賽の目に切ったリンゴ半個を入れ、ニンジン、タマネギを入れ、最後にジャガイモ、ベビーオニオン。そこでまたクチを出す。「マッシュルーム入れないの?」「シチューにまざると味が微妙に変化するから、軽く塩ゆでしてスライス。食べるときにお好みで」。
 
 そしてトマトピューレを1本入れ、3時間ほどとろ火で煮込む。肉と野菜、ピューレのアクが出るので、几帳面にアク取りをくり返しおこなう。午後6時半ごろ「煮込む時間は短いけど」と男が言い、母は「お腹すいた、食べよう」と促す。母はレタスとアルファルファのサラダだけ器に盛った。
 
 「ミコちゃん、ご飯だよ」。叔母の名は由美子。部屋中にただよういい匂い。深めのカレー皿に盛ったビーフシチュー。食卓を囲み、3人声をそろえ「いただきます」。スプーンですくったシチューをひとくち食べ顔がほころんだ。絶品だった。脂気が感じられず、あっさりしてふくよか、でも深い味なのだ。
姉が叫ぶ。「おいしいー!」。姉妹の満ち足りた顔を見て男が言う。「初めて作ったにしてはまずまず」。姉も妹もお代わりした。残り汁しかないシチューを自分の皿に入れ、男は「売り切れてよかった」と言った。
 
 叔母は翌春、青山学院大学に入学した。母はインド旅行の資金を稼ぐため大手建設会社で1年間はたらいた。昭和47年(1972)、大卒の大手企業の初任給は6〜7万円。翌年晩夏、男との長い春は終わった。晩婚だったあたしの結婚を機に母は長年住み慣れた練馬の家を売り、吉祥寺の分譲マンションへ引っ越した。
 
 叔母夫婦が夫の赴任先ギリシャで暮らしていなければ、男もビーフシチューも知らないままだったろう。大学2年の夏休み前、「アテネ行かない」と叔母が誘ってくれた。アテネで3泊、エフェソスで1泊、ミコノス島、ロードス島で各2泊。
 
 アテネの夜、アクロポリスの見えるレストランではじまり、ホテルの部屋でも叔母はとうとうと話した。母が出してきたエプロンの柄は大きめの花柄だったそうだ。叔母もビーフシチューに挑戦した。男と母の会話に出てきた食材を使い、牛肉はヘレではなくダシの出るすね肉を使う。
 
 あのとき男は一度も休憩せず5時間立ちっぱなしだったらしい。わずかなアクを何度もすくい、アクが浮かなくなるまで鍋のそばにいた。牛乳大さじ2杯、砂糖ひとつまみを足したのが味をやわらかくする秘訣なのかもしれない。「こんど食べさせてあげるからね」と叔母は言ったが、まだ一度も食べていない。父が亡くなって24年、叔母と母は健在です。

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