2024-03-22
花図鑑(3)
 
 長いあいだ感動の正体に気づかなかった。別かれてしばらくは思い出すことさえ忌まわしく、でも、思い出を消そうとも思わず、新たな生き方を模索したのも束の間、旧知の男性が再登場し、半年足らずの交際期間を経て夫婦になった。
 
 一男一女に恵まれ、しあわせな家庭だったが、子どもたちが成人して夫婦仲に亀裂が生じ、大企業に勤める夫は仕事と家庭の板挟みとなって、もともと強かった酒に溺れ、帰宅時間がおそくなり身体のバランスを崩していった。
そして重篤な病に罹り、50代で旅立った。母校の大学院に入学し、それなりの論文も発表し、古代仏教彫刻の知識を生かしてツアーガイドをしたこともあった。
 
 それから10年以上経過し、練馬の自宅を売り払って分譲マンションに移った。同好会のOB会名簿に住所と電話番号が記されてあって、転居先を知られたくなくて知らせていない。夫と仲のよかったOB会同期2名は亡くなっていたので転居案内も出さず、転居先を知るのは親族の一部だけ。
いまはもう残された時間で何かしようと思わなくなった。元気でいられるなら続けたいのは旅と美術鑑賞。
 
 感動の正体を知るきっかけになったのは30年以上前に別れた男のホームページだった。パソコンと縁のない暮らしをしていたあたしがホームページの存在を知る経緯は忘れてしまったけれど、2007年にアップロードされた一連の文章はあたしを念頭に置いているとしか思えなかった。
 
 「花は象徴でも観念でもなく、世阿弥の体験そのもの、あるいは体験から会得した何かであるだろう。一方で花は自由の象徴であり、精神と行動の指針なのだ。」
「不退寺でもない、レンギョウでもない、何の花か判別できなくなったとき初めて、その人固有の人間像が浮かびあがる。生き方は花に、自然に似るのである。将来、人生の幕が降ろされようとするとき、心を満たしてくれるかもしれないのは花なのである。」
 
 老いると身体に潤いや張りがなくなり、部位も気管も垂れて、何の花か識別できず、肉体がどういう意味を持つのか曖昧となっていく。いつだったか若いころ、「女は灰になるまで女さ」と彼は言った。
盛りを過ぎてなお女を保っていけるかどうか疑わしい。色即是空、空即是色の世界を彼がクチからでまかせに言ったとしか思えず、実感がわかなかった。ある年齢を過ぎると色欲は閃光となり、過去の光景が浮かぶのは一瞬である。
 
 あの男は現場感覚を最優先し、理屈も講釈も言わなかった。そういうところがあたしと同じ。恋愛が盛りをむかえるころ、「色恋は語るものではなく実践するものだ」と、よくもまあヌケヌケと。
 
 ずいぶん昔、3月初旬、同好会の後輩たちが卒業旅行を企画し、卒業を間近に控えたあたしは馬籠、妻籠一泊旅行に参加した。4年生はすくなく、圧倒的に多かったのは3年生。木曽は寒く、いったん仕舞いかけたグレーのエナメルっぽい冬用ロングコートを着用。先日、身辺を整理していたら当時の写真が出てきてコートを思い出す。
 
 帰宅して2日後には神戸の叔母宅にいた。就職後しばらくは奈良に行けないと考え、京阪神に実家のある彼の車で奈良へ行った。3月はばたばたと過ぎ去り、4月から銀座に本社のあった建設会社勤務。有楽町で下車。
会社勤めをスタートして気づいたのは、デートの時間はあっという間に過ぎていくが、オフィスで過ごす時間は長く無為に感じる。インド旅行の資金を稼ぐための1年間、時間を売った気がする。
 
 40年かそれ以上、時間を売り続けた人に得るものはあるのだろうか。同僚や部下は長年の労働をねぎらってくれず、家族は報酬をもらっているから当たり前としか思わず、あるいは、定年退職後やることがないから嘱託業務を続けているだけだと思い、結局、自分に向かってよくがんばったと評価し、自らを慰め、ねぎらうしかない。
 
 家族は父親には理想形をもとめるけれど、母親にはほとんど求めない。母は慈愛に満ち、やさしく受けとめてくれ、日々のおかずをつくる。あいまいな態度で言葉を濁すような父親は理想形にほど遠く、尊敬に値しない。家庭でいそしむ母の姿を見て子は敬愛の念を抱く。子どものいる家庭は女のほうが有利なのだ。
 
 あの男なら甲斐々々しく料理をつくり、子どもの話に耳をかたむけ、記憶し、英語だけでなく数学も教え、二次方程式の解はX=2a分の−b±√b2乗−4acと、多くの人たちが忘れている公式をおぼえている。
 
 流水算も通過算も方程式で解き、三角形と円の図形問題、三角関数や対数の問題もすらすら答えを出し、子どもが熱を出せば徹夜で看病する。それでも母親を慕う子どもは多い。両親相互の愛を秤(はかり)にかけ、より愛されているほうが偉いと思うのだろう。
 
 彼方に消えていったはずの記憶の断片がよみがえる。喧嘩もしたが愛されていた。時々あのころのシーンがフラッシュバックする。色恋の真っ只中にいて痴態を見せたこともあるけれど、そういうときもあたしを大切にしてくれる意思が伝わり心地よかった。色欲に溺れず、さまざまな場面で感動を共有した。
 
 感動は長続きせず、しかし共感できたという思いは至高の経験としてとどまる。感動の共有こそが花であり、人生の幕が降りようとするとき、心を満たしてくれるのは花なのだ。

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