2023-11-07
ダンシング・ミスト
 
 昼間の大学正門前は学生が行き交い賑わっているのだが、社会学部の学生が下校する夜、10時を過ぎると寂しいほど静まりかえった。11月初旬の冷たい風が吹き、コートの襟を立て正門前にさしかかったとき、向こうから男が歩いてきた。
すれちがいざま声をかけた瞬間、コートの裾が突風にひるがえり、男は驚いたようにあたしの足を見た。視線を感じたときの電気が走ったような感覚は何だったのだろう。それがすべてのはじまりだった。
 
 学生時代、情報流布の乏しかったころ、どこから仕入れてくるのか、ジルベール・ベコー、シャルル・アズナブールなどの歌手、菊池雅章(きくちまさぶみ)などコンサート行く?と言った。
1971年3月から7月、9月から12月まで会い、72年1月から2月は喧嘩のあいまに会い、3月に仲直りしたと思ったら、あたしの就職で週に一度しか会えなくなった。勤務先は銀座にビルがあった大手ゼネコン。学生時代の待ちあわせ場所が大学のそばを避けたように銀座は避けた。誰かに見られ噂の種になりたくない。
 
 冬に集中したのはなぜか今もわからない。喧嘩の代わりに「にらめっこ」しようと言ったこともある。あたしが先に笑って、「そんなに早く勝負がついたらつまらない」と言われてしまった。おもしろい顔するからしかたないよ。喧嘩はこっちから売るほうが多かったように思うが、しかけられたら「喧嘩売る気?」と啖呵を切った。思ったことをその場で言えた。
 
 喧嘩の理由や、そのとき何を言ったのか忘れたし、前の喧嘩を掘りおこさなかった。過去のことを言い出すとキリがない。あたしも彼もカッときてサッと忘れた。抱き合って仲直りできるのは若いころだけだ。年を取ってそんなことをしたら張り倒されると知るべきだ。
 
 大隈講堂で催されたジャズピアニスト菊池雅章のコンサートに行ったのは1971年だったと記憶している。しかしPC検索でヒットしたのは、1970年10月11日夜の菊池雅章とクインテットの「JAZZ IN WASEDA」。ゲストは渡辺貞夫カルテット、日野皓正クインテット、笠井紀美子。日野皓正と笠井紀美子は思い出したが、渡辺貞夫は記憶から消えている。
 
 コンサートの最後に演奏されたのは菊池が作曲した「ダンシング・ミスト」。20分にも及ぶピアノ、トランペット、エレクト−ン、ドラムなどの伴奏はどことなく陰気。同じフレーズをくり返すだけで、早く終わらないかなと思ったくらいだったが、演奏開始から15〜16分経過したころ、霧がたれこめるようなリズムになった。
 
 終わるかと思えたとき菊池雅章が最終章を演奏しはじめ、バンドもそれに呼応する。そこからが彼らの独壇場。フレーズをくり返しているうちにリズムが明るくなり、メロディが微妙に変化してゆく。
菊池の即興だった。霧が舞うようにピアノを弾く。コンサート開始時間は思い出せない。22時を過ぎてスタートしたアンコールに魅了され、演奏者と観客は熱気に満ち一体となっていた。23時台になっても終わらず、終電を気にする一部の客はそわそわしだし、約3分の1は席を立った。
 
 与野市(現さいたま市)に住んでいたあたしは幸いにも大学受験生の妹と二人暮し。彼とのデートは午前さまになることもあったので妹は慣れっこになっている。深夜ならあたしの家まで50分のドライブ。時間を気にしなくてもいい。
1974年、ダンシング・ミストのライブ演奏レコードを買った。しかし最終フレーズは短く、バンドの乗りもあのときの勢いにはほど遠く、レコードとライブは違いすぎた。
 
 1972年12月初旬から、あたしの休日に原宿や代々木の仲介業者を二人で訪ね、現物を何軒か見学、西武新宿線「下落合駅」から徒歩数分の新築5階建て賃貸住宅(1Fは店舗)の5Fに決まり、契約したのは翌年1月。空家賃を払うのは不経済だと意見が合い、引っ越しの日取り(2月)もすぐ決まった。
 
 テレビ、洗濯機など什器備品も二人で見に行って決めたと思う。多忙な日々を過ごしているさなか、彼の身辺で面倒なことがおきて彼は自由のきかない状態になってしまう。家電製品配送日に賃貸住宅で待機した。最低限必要な食器類、台所用品、バスタオルやマットも買いそろえた。
 
 仕事のあいまに彼を励ましにいった。月刊誌「新潮」に連載されていた小林秀雄の「本居宣長」を届けた。時間に制約されていてもエンジン全開。休日は買物でつぶれたけれど疲れは感じなかった。インド行きの資金が貯まったその年の3月末に退職し、母校の文学部東洋史学科に学士入学。
 
 それから1ヶ月ほどたった学校帰りの夕方、くれなずむ春の日に誘い込まれるように下落合へ寄った。魔がさすというのはそういう季節、そういう時間。自分でも信じられない卑猥なことばを耳元でささやいた。大胆さに面食らったのか、そうなってしまえば逃げ場がなくなるからなのか、彼は事に及ばなかった。
 
 自分は聞く人。そういう姿勢を崩さなかった。あれほど真摯に辛抱強く耳を傾け、理解し、記憶にとどめる人に二度と出会うことはないだろう。あたしは語りながら考えを構築し確立した。「あなたほどあたしの言葉が通じる人はあらわれない」と手紙に書いた。別れたあと彼も語りながら自分の考えを組み立ててゆくだろう。その相手が伴侶となるにちがいない。
 
 交流がはじまって漠然とした不安を感じていたが、不安は殺し文句より口に出しにくい。そのころ口紅を変えた。そういう変化に目ざといはずなのに知らんふり。「口紅、濃く見えない?」と水を向けると、「ブリジット・バルドーに較べて?」と言う。問いに対して問い返すなんて彼らしくなかった。以前の口紅よりピンクがかった肌色。
 
 「メゾフォルテ(M&F)はあたしたちの名前の頭文字だよ」と言ったら彼は妙に喜び、「誕生日は5月11日と1月15日、逆から読めば同じ」と彼が言うと妹は苦笑いした。些細なことでも思い出は人を美化する。出会いも別れも朝霧のごとく忽然とあらわれ、そして消える。残された時間も少なくなった。一時でも花のある生き方ができた。悔いはない。

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