2023-08-10
キンモクセイ
 
 喧嘩が集中するのは冬で、頻繁に逢うようになった昭和45年11月、12月は平穏だったけれど、翌年1月末、最初の喧嘩をした。3週間も逢っていなかったのでイライラが募り、お互い気が立っていたと彼は言い、あたしは知らん顔をした。その通りだとしても、お互いというのが気にくわない。
 
 昭和46年春はまたたくまに過ぎた。春休みの合宿、そして大阪と奈良行き。神戸の叔母の家に泊まった翌朝、阪急電車神戸線「夙川駅」(西宮市)で甲陽線に乗り換え、「苦楽園口駅」改札を出たところで待ちあわせ。彼の実家は苦楽園。そこから奈良を向かう。
奈良公園・日吉館の並びにあるのに彼が知らなかった「下々味亭」(かがみてい)」で日替わり定食。正午前から13時ごろはタクシー運転手、運送業者で立て込む。13時過ぎに行ったらガラ空き。かまどで炊いたご飯、自家製の味噌でつくった汁物。おかずは厚焼き卵。彼の納得顔を見て満足。
 
 昼食後、大阪にもどって藤田美術館。駐車場を探すのにもたもたして、というのも、付近はラブホテルが密集しており、そこなら駐車できるけれど、運転席も助手席もさらさらそういう気はなく、やっと見つけた有料駐車場から藤田美術館までの歩道にもラブホテルが乱立していた。陶磁器の逸品に集中できず、夕食をとった梅田・八番街地下レストランの照明が暗すぎて不機嫌になった。
 
 4月、前期の講義がはじまっても専門科目の取得単位が多いので余裕。6月下旬、明治神宮の菖蒲園は私たちのほかに人影はなく、思い切りいちゃついた。
原宿から青山まで歩き、コーヒーブレイクのとき話してくれたのは、中学生のころ顕微鏡で精子を観察したら、頭と胴体の区別がわかり、尻尾がくねくね動いていたらしい。デートに向かない話題なのだが、陳腐な体験を話題にする人ではなく、あたしもびっくり箱を開ける気分がして満更でもなかった。
 
 7月半ばから8月終わりはお互い旅行で忙しく、8月下旬の同好会奈良合宿に参加していたので9月まで会えなかった。2ヶ月会わずにいるとフラストレーションがたまるのに、再会しても喧嘩せず求め合うこともなかった。求めないのはポーズ。実態を見せないのが女のたしなみであり、隠すから生かされるという時代。
 
 大胆な行動をくり返せば警戒される。大胆と思われるのは一度か二度でいい。人前で目立つことも避けねばならない。そんなご託を並べるのは考えていることを実践しなくてもよかったからだ。相手を理解しようと思わなかった。自分を理解されたいと思わなかったように。理解しようとしなくてもわかり合えた。
 
 久しぶりに逢ったのに彼は雑用ができたと言って帰省した。1週間たっても連絡がないので手紙を書く。「秋の夜、雨の音を聴きつつ」と末尾に書いた。それで察しがつくだろう。彼岸を過ぎ彼は帰ってきて、次の月曜に逢おうと約束。
その夜、夢をみた。路地を抜けると深い緑に包まれた大邸宅。どこまでが屋敷なのかも隣の屋敷との境目もわからず、物語の世界みたいにばかでかい。誰が住んでいるのだろう。
 
 あてずっぽうに勝手口を探して生垣沿いを歩いていたが、芳醇で甘い香りにむせかえって立ち止まる。巨木に成長したキンモクセイ。人の近づく気配がして反射的に生垣の影に身を隠した。男性ふたりが木戸の前で足を止め、ここじゃないかとつぶやく。
小さな木戸は京都のお寺の裏門のように古ぼけており、表札はなく呼び鈴のボタンが取り付けてある。男のひとりが呼び鈴を押そうとしたそのとき勝手口の門が開き中年女性が出てきた。男が「ミサコさんご在宅でしょうか」と告げ、女性が足早に引き返し、まもなく若い女性があらわれた。
 
 ジャスミンのように上品な女性は、ノースリーブのワンピースに肌が透けるような薄いカーディガンを羽織り、上腕部がより白く見えた。彼女が「バス停から迷わなかった?」と尋ねた。山荘ふうの建物の屋根が見えたけれど築山と木々に邪魔され全体は見えず、茶室ふうの離れに男たちを導きながら「キンモクセイ、匂いがきつかったでしょう」と言う。
その瞬間、チョウが目の前にあらわれ、サッと身をひるがえし、どこかへ飛び去った。ひらひらではなく一直線。築山の周りに植えられたクヌギ、コナラの樹液をルリタテハは好んで吸う。チョウの飛翔を待っていたかのように涼しい風が吹き、木々はひと息つく。
 
 九州旅行や山陰の海で焼いたのか、8月が終わろうとしているとき身体は褐色で、奈良公園・円成寺の徒歩往復が輪をかけ、肌は小麦色どころか黒光り。下は連日はいていたミスティブルーの綿パン。
 
 彼がひとりで柳生街道を円成寺まで徒歩往復し日吉館に帰ったころ、4年生からはじまる入浴は全員終了、おくれをとった新入生の彼が最後だった。広間の配膳も終了間際、廊下を通らず広間を横切ろうとした彼は、集合時刻前に2階から降りてきたジャスミンと鉢合わせしたのだ。もったいぶらず時間前に来るところが良家の子女の証である。
 
 ジャスミンは小学校から高校まで田園調布の名門女子校に通い、男との交流はなかった。アルバイトもしなかっただろうから同年輩の男と接する時間はない。いきなり目の前に出てきた半裸の男。長距離歩行でカロリーを消耗した男は日吉館の丼飯を7杯お代わりし、「7杯は新記録や」と老女将がつぶやく。バカな先輩が「アホの三杯汁よりすごい」と言った。
 
 9月、傍目には以前と変わらず楚々とした気品をただよわせる彼女の微妙な変化に気づいたのは日吉館の現場に居合わせた長年の親友だけだった。白いジャスミンは馥郁たる香りのキンモクセイに変わっていった。
11月半ば渋谷西口バス停で「下宿へ行ってもいいかな」と男に尋ねた。彼女に思いを寄せる友人が知れば動揺する。男は「女人禁制なんだ」とはぐらかし、ウソと感じた彼女は「寒いね」と言い、「お茶とケーキは?」と彼が誘う。駅ホームを隔て反対側のケーキ店兼喫茶店に入ったふたりは夜が更けても時を惜しむように語り合う。
 
 そこからがおもしろそうなのに場面が変わった。誰かが真新しいトランプのパラフィン紙の封を切り、手際よくカードを配っている。配っても配っても手持ちのトランプは減らず、焦るプレイヤーの顔が見えた。あたしだった。
その瞬間、目が覚めた。汗でパジャマが湿っていた。半裸の男なんてめずらしくもないし、2ヶ月逢ってないから汗が噴きだしたというのでもないだろう。朝の寝覚めはよくなかった。
 
 久しぶりに彼に逢って何をしたのかおぼえていない。昭和43年秋、そういう出会いがあった。女性には自覚のないまま香りを発散させる時期があり、その期間は好奇心の短さほどに短い。
 
 結婚直後、夫の勤務先が大阪だった関係で奈良公園近くの借家に住んだ。休日は夫が運転して交通の便のよくない寺社を巡った。東京本社勤務になって都内に家を新築。子育てに追われ日々は過ぎ、子どもたちの独立と夫の病死を経て寡婦になった途端、余裕ができて母校の大学院の古代日本美術史を受講。
修了論文は法隆寺金堂釈迦三尊に関することで、学生時代から漠然と興味を持ち、身内の死で身近になった死後の世界も書き加えた。
 
 空気と水にこだわりがあって、60歳をこえたころ空気の汚さがイヤでしかたなく、OB会名簿に住所が載っているのも気分はよくなかったが、ふんぎりがつかないまま時間を空費した。問題を一挙に解決するため郊外に引っ越し、親しい人たち数名以外に新住所を知らせず名簿から名前は消えた。
 
 キンモクセイの芳香に心をときめかせた者、長い時間がたって香らなくなった者。元気をもらい、与えることができたけれど、香りを失ったいまとなっては忘れられたほうがすっきりする。何事もなかったかのごとく時は過ぎ去る。記憶のかけらさえ失う日が来ても、甘い匂いの記憶は残るだろう。

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