2011-04-03 Sunday
子ども内閣の脱皮
 
 4月2日・産経ニュースネット版は次のごとく記している。
『蓮舫節電啓発担当相は1日の記者会見で、石原慎太郎都知事が花見について「一杯飲んで歓談する状況じゃない」と自粛を促していることに対し、「権力で自由な行動や社会活動を制限するのは最低限にとどめるべきだ」と反論した。
また、一部のコンビニの深夜営業を自粛すべきだとの意見があることにも「夜間の電力は現段階では相当余っている。コンビニや自販機の夜間照明は治安的にも意味がある」と述べ、不必要だと強調した。その上で「電力があるにもかかわらず経済活動を公の力で制限していくということが、わが国経済にとってどのような影響があるのかも冷静に考えるべきだ」と訴えた。』
 
 石原都知事は特段権力を行使しているふうでもなく、また、そういう意味で発言したものとも思えないが、蓮舫大臣の発言はいちじるしくお門違いであるとか、都知事選を見据えての反論だとかの石原節を都知事が自粛したのは、実効なき仕分けや2番じゃだめなんでしょうか発言で大人の顰蹙を買った蓮舫を子ども扱いしているのと、大難事の取り組み以外は念頭にあらずの心境だからだ。
 
 話は変わる。平成7年プロ野球ペナントレース、過酷な戦いのすえパリーグを制覇したのは地元神戸のオリックスだった。優勝インタビューでイチローは「被災した方々のためにがんばれたと思う」という意味の発言をしている。イチローのことばが16年後のいまも生きていることは、いち早く義援金1億円を送ったことで明らかである。
松坂、松井やダルビッシュ、ラミレスなど野球選手、報道の現場を去った久米宏の2億円も見事。モンゴル全公務員が自発的かどうかはさておき給与1日分を共同募金したことや、台湾からの義援金にも心打たれた。
 
 ペ・ヨンジュンほか韓国俳優の素早い義援金提供について。特にペ・ヨンジュンは一度だけでなく再び援助した。一度しても気持ちが落ち着かないというか、身体のなかで何かがわき起こったものと思われる。意志を行動に移さないと自分が救われないと感じたのだろうか。真摯な姿勢は力である。自粛が長びくと気も滅入る。
 
 子どもと大人の違いは経験の有無、軽重のみでなく、覚悟、誠意の有無と強弱によるだろう。そんなことはたいていの大人は知っているけれど、子ども内閣の面々は知らずにいたし知ろうともしなかった。知っていたのは喧嘩腰というムダ腰である。
政治主導は名ばかりで、有能な、あるいは経験豊かで諸外国要人とのコネクションを持つ外務官僚ほか背広組の助力を求めないばかりか、尖閣問題時は最前線で格闘している海上保安庁、自衛隊幹部など制服組の意見も無視し、とどのつまりが柳腰。
 
 話は飛ぶ。政治家、特に指導者に求められるのはわれわれとの一体感であり、思いつきのパフォーマンスでも人気でもない。小泉さんにあってほかの首相になかったのは一体感といっていいだろう。自民党を支持しないが小泉さんを支持する人は多かった。自民党議員の一部は小泉劇場と揶揄し、マスコミもおもしろそうに書きたてた。
劇場であるからこそ観客と一体感を持てることに思い至らなかったのは、まさか彼らが劇場に足を運んだ経験のないせいか。政治を密室から劇場に引っ越しさせた歌舞伎・オペラ好き小泉さんの功績は大きい。首相在任中、ある意味「千両役者」だった小泉さんにはムダな動きもムダなことばもなかった。鳩ポッポ、菅大僧正などと較べると違いがよくわかる。
 
 巷間、有識者と呼ばれている人々は所詮有識者である。知識は豊富かもしれないが経験、覚悟、実践が不足している。三拍子そろった人との腕のちがいは歴然としており、頼る相手を間違うとロクなことはない。大人は経験者の智恵を借りる。が、民主党の子ども議員は自分で遂行しようとする。自分よりすぐれた人の智恵を借りることが智恵であることを知らない。
おまえさんにはいわれたくないと思っていたであろう都知事も、オレにモノいうだけの覚悟と大局観が蓮舫にそなわりつつあると感じたのだろうか、それとも口だけ達者なと思ったのか。脱皮する日は遠い。

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