1月3日、富十郎が死んだ。長い間、歌舞伎舞踊の頂点にいた。よくとおる声は歌舞伎座3階のすみずみ、大向うまで響きわたった。品のよさは板の上だけでなく、板から降りても品があって、しかも気さくでおおらかだった。初代中村富十郎(1721−1786)の名を有名にしたのは京鹿子娘道成寺である。だが、初代の名は歌舞伎界できこえていた。あの芳沢あやめ(初代)の息子だったのである。
京鹿子娘道成寺の創演者として後世に名を残した初代富十郎は芸域もすこぶる広く、京・大坂・江戸の三都で大当たりし(近年では十五世片岡仁左衛門がそれに該当)、歌舞伎一道惣芸頭の極位を占めた。富十郎は四代目富十郎と舞踊家吾妻徳穗とのあいだに生まれ、前名は市村竹之丞(六世)である。
系譜は省くが、しばらく途絶えていた市村竹之丞襲名(1964年4月歌舞伎座)にあたって、十七世市村羽左衛門(1916−2001)の口上「本来ならば竹之丞の名跡を継ぐべき人ではない」が物議をかもした。この口上は、市村竹之丞(五代目中村富十郎)の母・吾妻徳穗が実は大正昭和の名優十五世市村羽左衛門の庶子であるという話に起因する。十七世の長男(現坂東彦三郎)に羽左衛門の名跡が継がれないかもしれないことを危惧したのだろう。武智鉄二に見いだされた中村扇雀(現坂田藤十郎)と共に一時期「扇鶴」時代を築いた坂東鶴之助(市村竹之丞の前名)人気、実力は瞠目に値したのである。
中村富十郎(五代目)は踊り、所作事の名手だった。富十郎が出るとき、狂言に舞踊または舞踊劇があればみにいった。なかには吉右衛門のように踊りのどこかで手を抜く役者もいるが、富十郎は生真面目でいつみてもガッカリさせられることはなかった。娘道成寺のような大曲だけでなく、うかれ坊主のように衣装や道具、早替りなどでごまかしのきかない踊りも巧みに踊った。
「娘道成寺」の花子、「鏡獅子」の前ジテ・弥生はもはや舞踊を踊るというより遊んでいるふうにみえた。人を酔わせた。足さばき手さばきは絶妙、目の動きにいいようのない魅力があって、芯がぶれず、動きにムダがなく、ふくよかで明るかった。七十を過ぎても踊りにキレがあった。舞踊劇では「舟弁慶」の知盛もよかった。平家公達の気品を失わず、亡霊の不気味、武者の豪壮と滅する者の悲壮を見事に体現した。
富十郎の明快さ、おおらかさは十五世市村羽左衛門の血の配剤であるだろう。朗々たるせりふの歯切れよさはは祖父ゆずり。吾妻徳穗もおおらかで明るく、富十郎は顔まで徳穗の生き写しであった。富十郎69歳時に誕生した長男・大ちゃん(初代中村鷹之資)はまだ11歳、妹思いのやさしい鷹之資の行く末が気がかりだ。鷹之資は今月、新橋演舞場の「寿式三番叟」で附千歳をやっている。三津五郎が三番叟をやり、富十郎も梅玉と共に二人翁の翁をやるはずだった。父のいない舞台はさぞ寂しかろう。鷹之資が中村富十郎を襲名するであろうころ、往年の歌舞伎ファンはこの世の人ではない。
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