2010-12-07 Tuesday
無期限自粛
 
 海老蔵事件という表現が不適切であるかどうかはともかく、12月7日、記者会見の壇上に海老蔵は立った。午後9時NHKニュースのトップにふさわしいのは海老蔵が継承すべき名跡・市川團十郎の大きさと重さであって、海老蔵人気や事件の規模ではない。名の大きさ、重さに比例して責任は重く大きい。そう考えたのは歌舞伎を愛する者だけではなかった。それは、歌舞伎出演無期限自粛という松竹の、海老蔵への大きなお灸で理解されるだろう。
劇聖と称された九代目が明治36年に没し、十一代目(十代目は十一代目の養父・市川三升に死後追贈)が昭和37年に襲名するまでの59年間、團十郎は歌舞伎界に存在しなかった。大名跡にふさわしい役者がいなかったからである。それがゆえに松竹が襲名を許さなかった。当時の松竹にはそれだけの太い骨があったし、客もよくわかっていた。
 
 海老蔵の祖父・十一代目市川團十郎と妻、子供の夏雄(現團十郎)については宮尾登美子著「きのね」に詳しい。小説という形式をとっているが、内容の多くは概ね事実であるだろう。十一代目團十郎は七代目松本幸四郎の長男である。弟に松本白鴎、尾上松緑。
いうまでもなく白鴎は現幸四郎の父、松緑は現松緑の祖父。長男はわがままで自分本位の人であったというが、客に対する姿勢は丁寧、親切、むろん、板の上では花も実もあるすばらしい役者で、人気のあったのは当然といえる。
 
 現團十郎の母(十一代目の奥さん)は七代目幸四郎=藤間家の女中(当時の言い方を使用)で、後の夫・十一代目を「坊ちゃん」あるいは「若旦那さま」と呼ぶ立場であった。人気役者の女出入りの多さは戦前の常識、十一代目の芸者遊びも派手だったようである。ところが最初の奥方は資産家の娘で素人。しかし閨房を温める前に離婚した。
 
 その後も十一代目の芸者遊びは続いたと思われる。だが女遊びや酒で積もったストレスがすべて発散されることはなく、側で仕えていた後の奥さんに当たって解消していた。すなわち、十一代目にとって自分を癒すことのできる唯一無二、必要不可欠な存在だったのだ。
十一代目が妻のあることを世間に公表したのは夏雄が小学生のころで、それまで奥さんも夏雄も日蔭の人。そういう苦労のなか、母の背中をみて現團十郎の人格ははぐくまれた。辛抱強さ、温厚な性格は母に似て、人品骨もわるかろうはずはない。
 
 「子供のころ、父がカッとなってちゃぶ台をひっくり返しました。大好きな卵焼きを食べないで残していたのに。それ以来、好きなものは最初に食べるようになりました。」 夏雄=團十郎が語った日蔭の風景である。
 
 十二代目團十郎の白血病、そして海老蔵の風呂場のケガ(2007年7月松竹座内。何かに腹を立て風呂場の鏡を蹴り、足に何針も縫う重傷を負った)は記憶に新しい。両者には何の脈略もない、が、2004年5月に市川海老蔵を襲名してはや6年。身を固め、そろそろ落ち着いていいころなのにこれである。
風呂場騒動のさい海老蔵の代役をつとめたのは今回の南座顔見世と同じ、愛之助と仁左衛門。顛末の一部は「歌舞伎評判記U=仁左衛門の女殺油地獄」に記した。まずは海老蔵、鏡は蹴っても、人を殴ったりはしない。がしかし、メディア情報を鵜呑みにする井戸端会議派や同類の人々に闇社会とかかわりあったというような疑念を持たれたのは失態というほかない。
 
 さて松竹である。海老蔵に対して巧妙かつ思い切った仕置きをした。
メディアバッシングに対するフェイントとして、また、当方は単に儲け主義ではないと世間に知らしめるために、次に、海老蔵贔屓の思惑を鑑み重い処分を課し、これからも応援よろしくというメッセージとして、さらには、歌舞伎を知らない人、次世代歌舞伎ファンの行方を見定めるために、同時に、曾我五郎を創出し練りこんできた市川宗家への禊ぎとしての無期限自粛(謹慎)であるだろう。
「五郎の役は子供の気持ちで進めること」と六代目菊五郎が記している(「藝」)。それにしても「無期限」とはおもしろい。数ヶ月後、舞台に復帰してもかまわないということである。
 
 歌舞伎座建て替え中のいま、松竹と歌舞伎役者全員が一丸となってがんばっていかねばならない状況で起きた事件。捜査当局の取り調べが進んでいないなかでの松竹の処分は、江戸歌舞伎を支えてきた市川宗家と歌舞伎界、歌舞伎ファンにとって決して軽いものではない。加害者は海老蔵であるかのようなメディアの扱いに立腹している贔屓も少なくないだろう。贔屓でない者がいうのもなんだが、一日も早い再起を期したい。 
 
               ※六代目著「藝」は1946年刊。第一章「六代目の襲名」には亡父五代目菊五郎の死後、
                   九代目團十郎の介添えで襲名したさいの狂言「曾我の対面」の詳細が記されている※

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