2006-07-21 Friday
昭和天皇の憂鬱
 
 昭和天皇について思うところを述べようとすると、いつも大きな壁が私の前に立ちはだかった。いったい、歴代の天皇に昭和天皇ほどの懐疑を抱いた天皇はおわしたであろうか。崇徳上皇のように深い恨みを抱いた天皇はおわしたが。
 
 昭和天皇ほど歴史の波に翻弄された天皇も少ない。記紀に云う天孫降臨以来、崇峻のように暗殺された天皇、崇徳、後醍醐のように争乱のただなかにあって辛酸をなめた天皇もおわしたし、将軍や執権が実権をにぎった時代も長く続いたが、いずれの天皇も生死にかかわらず天皇であったし、内戦に巻き込まれ敗者の憂き目にあっても、国全体が敗者となったわけではなかった。
 
 太平洋戦争後の日本は、国破れて山河ありと静観できるような状況ではない、国はあまりにも疲弊し、国民の多くは混乱し、路頭に迷っていた。天皇の戦争責任も云々された。昭和天皇は戦争責任より、いま困窮している国民への責任を重く受けとめられたのではないだろうか。
 
 私たちが壮絶な経験をして人間が信じられなくなるように、昭和天皇もいっとき人間が信じられなくなられたのではあるまいか。すくなくとも、懐疑的となられたことは間違いない。
真の懐疑主義は、何かを徹底して信じることができるから、ほかのことを疑うことができるということであるだろう。闇雲の懐疑は単なる猜疑である。
 
 昨日(7月20日)、元宮内庁長官のメモ(1988年4月28日付)が公になった。メモがすこぶる貴重な理由は、メモした人間以外の手が加えられておらず、きわめて信憑性が高いからである。
昭和天皇は1978年のA級戦犯合祀以来、靖国神社参拝をされていない。A級戦犯合祀に強い不快感を示されてのことである。当時の靖国神社宮司に対しても強い不満を述べておられる。
 
 「A級が合祀されその上 松岡 白取までもが、(中略) 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思っている
だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ」
 
 これは昭和天皇の心のありようを如実に物語るものとみて差し支えあるまい。日本国民を最大不幸に導いた戦争と、戦争に至るまでの暴走を続けた政治家や軍人へのいいようのない怒り、靖国神社宮司への強い不信感が昭和天皇の短い言葉に込められている。
側近に洩らした言葉は、まさに昭和天皇の本音であり、合祀などすれば、アジア外交に支障をきたしかねないとも思われたことだろう。
 
 宗教、信仰の自由が憲法で保障されているからこそ、A級戦犯の扱いにはもっと慎重になってほしかった。憲法が保障しているからといって、何をしてもいいということにはならない。合祀などされてはたまらん、昭和天皇はそのように思われたにちがいない。
 
 公にされたメモの存在は青天の霹靂のごときものである。メモによって私は、目の前の大きな壁を乗り越えることができたのだ。
 
 昭和天皇のお顔をはじめて拝見したのは小学生のころだった。関西の製菓会社行幸のおり、沿道で日の丸の旗を振っていた私たちを車からご覧になっておられた。
そのときのお顔がどうであったか忘れたが、今上天皇のお顔をテレビで拝見していると、皇后様と共に慎ましく、この国に身を捧げるお覚悟になられているお顔なのである。そのお顔はたとえようもなく美しい。
 
     行き暮れて 木の下陰を宿とせば 花や今宵の主ならまし    詠み人知らず

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