2005-12-25 Sunday
五輪フィギュア女子代表
 
 昨日のショートプログラムは見事だった。これほどレベルの高い戦いは見たことがない。欧米の選手と較べて、従来の日本フィギュア女子に決定的に欠けていた演技の華麗さと優雅さを、集中して身につけてきた結果が出たのである。
 
 なかでも、荒川静香と村主章枝の演技は文句のつけようがなく、荒川のジャンプの速さと高さ、日本人離れした手足の長さとスタイルの良さから繰り出される優美な演技には鳥肌が立った。長野五輪に出場した後、生意気になったか、ソルトレーク五輪代表を村主と恩田に持ってゆかれた。その口惜しさをバネに、荒川はスケート一本の人生となったはずである。そこが安藤美姫とはちがう。
 
 村主と荒川が不調であったがゆえに全日本連覇を達成できたのに、認識不足の安藤美姫は天狗になった。天狗になるだけならまだよかった。安藤はテレビをはじめとするメディアに出まくり練習をおろそかにした。そんな安藤に観衆を唸らせる演技のできようはずがなかった。極度の集中力と表現力を要求されるフィギュア選手が、テレビ出演の合間に優勝できたという話はない。
 
 競技の日が近づいたから練習に励むというようでは、当日納得のゆく滑りなど不可能である。猛練習が選手のバックボーンになることはいうまでもない。わずか2分ほどの演技は、何千時間という練習の積み重ねに裏打ちされている。猛練習は選手の魂ともいうべきものであり、土壇場で選手を支えるのは魂なのだ。
 
 多くの悩み、迷いがあったことは想像に難くない、だが2005年下半期、荒川や村主の日常はまさにスケート三昧、メディアであれ何であれ、ほかの要素の入る余地はなかった。新採点法導入後、ジャンプ、スピン、ステップ、スパイラルそれぞれの難易度の照準をレベル4にあわせねばならないのだ。それをどうこなして自らのものにするか。それが彼女たちに課せられた命題である。
 
 近年、「楽しく‥〇〇する」とか、「××を楽しむ」という言い方が流行っている。それは、身におおいかぶさるプレッシャーを避けるための術で、プレッシャーのない選手がいうのは滑稽である。
 
 荒川も村主も「楽しむ」ということばを口にはしなかった。そういうことを口にして自らをエクスキューズする愚を知っているからだ。「楽しむ」とか「楽しかった」ということばをいうのはオリンピック本番後、この二人は大人である、本番前にテレビの喜ぶことをいう義理はない。
 
 村主のショートプロブラムの演技もすばらしかった。特に、音楽がかわってからのテンポの良さ、キレの良さ、華麗さを巧みに両立させた動きは秀逸。荒川と共に、伊藤みどり以来の五輪表彰台に上る期待をもたせてくれたように思う。すべては昨日のショートプログラムに反映されていた。主力二人はいつでも力を発揮できる。きょうのフリーはオマケである。
 
 中野友加里は残念としかいいようがない。昨季導入されたポイント制が安藤美姫に有利にはたらいて選にもれた。恩田も同様である。ショッピングカードじゃあるまいし、ポイントとは解せない。ほんとうはいま旬の人が五輪出場すべきであると思うが、ルールはルールであり、過去の栄光と4回転ジャンプの可能性で安藤が代表の一人となった。ジャンプしても尻餅つくだけだろう。

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