2003-12-03 Wednesday
テロの世紀
 
 おもえば21世紀のはじまりは殺伐としていた。
自然の風化によって徐々に崩れさるはずのバーミヤン谷の石仏二体が跡形もなく爆破され、ニューヨーク世界貿易センタービルが定期便航空機による自爆テロで崩壊、両者ともイスラム教徒の犯行であった。
 
 毎日地球上のどこかで自爆テロ、もしくはそれに類似したテロリズムの嵐が吹き荒れている。そのほとんどがイスラム教徒によって計画、実行されている。古くはたしかにキリスト教徒による破壊や暴挙がアテネなどで行なわれ、多神教世界のかけがえのない文化遺産が消失した。歴史は繰り返すというが、結局のところ人が繰り返すのである。
 
 文明がどれほど進歩し、生活がいかに豊かになっても人の心は変わらない。叡知が不滅であるように愚行も不滅なのであってみれば、21世紀においても破壊と暴挙はなくならないのである。
20世紀が大量殺戮の世紀とすれば、今世紀はテロの世紀となるのだろうか、そんなことをふと考えてしまうほど殺伐とした3年だった。
 
 この国にも「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という表現もあるが、米国憎けりゃ日本人まで憎いということになるのだろう、二の句がつげぬほどメチャクチャな話である。ひたすら破壊に向かう情念というか欲望は性欲や所有欲より強烈で、自他の生命を犠牲にしてもとどまるところを知らない。
 
 この欲望の前では本能も五欲も影がうすくなる。抑圧によって生じる妄想と復讐欲にかられた人々にとってはもはや、友好も情愛も、ましてや理性という足かせはどうでもよく、ただまっしぐらに狂気の道をつき進む。それはそれで使命感に裏打ちされていると彼らは信じているであろうからどうしようもなく、そういってすまされるものではないから、さらにどうしようもない。
 
 きょうのトピック「イスラム世界vs米国」でもふれたのだったが、私はあれ以来陰々滅々としており、実家が宝塚市の奥参事官と、井ノ上書記官の死に腹の底から悲憤がわき出し、爆発寸前なのである。バーミヤンの石仏が破壊されたときは悲のほうが強かったが、同胞の死に対しては憤りのほうが強い。
タリバン、アルカイーダ、ビンラディン、フセインなど名前はどうあれ彼らは同類で、歴史上たびたび彼らは名前を変え登場してきた。そして、敬虔な信仰者にではなく、欲望と卑屈がはけ口を求める信仰者につけ込み、煽動し、資金を提供し、意のままに操ってきたのだ。
 
 一文の値打ちもない使命感であるにもかかわらず、それがあたかも値千金であるかのようにみせかける。テロリストは最初からテロリストではない、どこにでもいる市民がかれらの煽動で破壊行為を犯しテロリストと命名される。市民とテロリストとの距離はきわめて近いのである。
テロリストが正気にもどることがあるとすれば、死んだとき、あるいは逮捕され、公判が結審する途上である。いずれにせよ遅すぎる。それまでは愛も信仰も無力なのだ。鬱々たる日々はそうしてつづくのかもしれない。

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