2005-08-05 Friday
小泉純一郎
 
 このHPの「エッセイ」2001年4月25日に「千両役者になれるか小泉純一郎」と題して一文をしたためてすでに4年以上の歳月が過ぎ、その間に、小泉さんが千両役者たりうるかいなかをためす機会は何度かあった。小泉さんは、常に千両役者であったわけのものではなく、ときには五十両役者どころか、三文役者かと思うこともなかったわけではない。
千両役者がつねに千両役者の風格と品性をそなえ、見物の拍手喝采を浴びると考えるのは早急というもので、事と次第によっては、ニン、ガラのいずれか、あるいは、双方ともに合わないこともある。団十郎は助六や権五郎景政に向いてはいても、紙屋治兵衛や忠兵衛はニン、ガラともに向いていないのと似たようなものである。ただ、これだけはこの人にしかできないという役回りが存在し、そこで千両役者の本領を発揮すればよいのである。
 
 つらつら考えてみるまでもないことであるが、従来の自民党政治は、金権か密室政治の繰り返しであり、それがゆえに国民の多くは、あぁまたかとウンザリするかあきらめるかのどちらかで、その思いは、選挙時の都市部における投票率の低さに反映されるのが常であった。たしかに、だれが首相になったからといって、都市部の投票率が飛躍的に上がるものでもないのだが、政治に対する関心度は若干上がると思われる。げんに、小泉さんが首相になってからの政治、政局への関心度はそうとう高くなったのではないだろうか。
 
 小泉さんが郵政改革に乗り出して以降、どれほど自民党政治に、密室政治に、密室行政に風穴が空いたことか。郵政改革が否決されるか可決されるかは二の次である。重要なのは、可否にいたるまでの経過、侃々諤々の論議を国民の前に提示し、従来のように、自民党内部の混乱を収拾することに重きを置くのではなく、改革の本質と将来性をわかりやすく明示することにある。
すくなくとも今までは、自民党も行政当局も変革に対して後ろ向きであった。特に財政改革は期待することすら無理であった。変化が遅いという次元の話ではない、変化を求めるたびに潰されてきたのだ。小泉さんが現れなければ、こういう状況はまだ当分の間つづいていたであろう。
 
 郵政改革に賛成か反対か、それはその人の立場や状況、主義主張によって異なるのは当たり前。小泉さんが、この程度の改革が実現できないようなら、先が思いやられるという意味の発言をしたのは、政治家も官僚も国民も、いままでの「変革なしの政治」に慣れきっていることへの警告である。泰山鳴動して鼠一匹では、せっかく変革の兆しをみせはじめた自民党政治が、ふたたび元の木阿弥になるという心の叫びなのである。

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