2005-06-02 Thursday
花田家の葬儀
 
 元横綱・貴乃花の物言いは近年まれにみる不見識なものであった。配偶者がいない場合、喪主は長男である。それはこの国のいわば社会通念ともいうべきものであり、かりに故人の子が内閣総理大臣や経団連会長であっても、その子が長男ではないとき、よしんば長男が無職あるいは年金生活者であったとしても、喪主は社会的地位に関係なく長男なのである。
 
 社会通念とか常識というのはいつの世も、難解であったり与(くみ)しにくいものが篩(ふるい)にかけられ、わかりやすく長つづきしそうなものが掬(すく)いあげられたことどものことを云う。長男喪主というのは家父長制度の名残といった含みがないわけでもないが、わかりやすいことこの上ない。
 
 「自分が喪主をするのが部屋の総意」とは何事か。部屋にいる弟子はたかだか10代から20代前半の、まだ幼顔のぬけない、ほとんど相撲のことしかわからない子供ではないか。
部屋の裏方もそう思っているなら、この国の社会常識からかけ離れた者に相違なく、そういう者たちの総意は多くの常識人の反発を買うだけであり、それさえ斟酌しない貴乃花とはいったい何者であったのか。
 
 記者会見での「長男の花田勝氏がどうしてもやらせてほしいというので」との発言には呆れはてた。開いた口がふさがらないとはこういうときに云う。兄貴がそんなことをいわずとも、喪主をつとめるのは当然兄貴だと、泰然自若としているのが貴乃花のとるべき姿勢であろうに。
 
 メディアからみれば兄弟の確執はまたとないニュース種、他社に先んじて報道しない手はない。恰好の餌食にされたのは兄弟の不仲ゆえであり、彼らはそれを隠そうともしなかったからだ。
弟も弟なら兄も兄である、メディアを喜ばせる原因を排除すべきなのに、さらに傷口を広げた。兄弟の会話の欠如がそうさせたといえる。そしておそらく、兄弟の配偶者も夫たちの仲違いに一役買っているだろう。誤解を恐れずにいうと、姉さん女房の発言力は大きい。
 
 若貴兄弟の母親・憲子さんはさすがに生みの母である、世間の批判がどちらにも向かないよう心を配り、特に貴乃花に対しては「自分をつらぬくのは光司らしけど、王道を突き進んでいてまわりが見えなくなっている。社会勉強が足りていない。自分をみがいてほしい」と述べている。
 
 長男が気遣って憲子さんに通夜に列席してほしい旨を伝えた。貴乃花なら連絡しなかったろう。
長男は長男で葬儀に関わる重要事項を弟に伝えないだろう。そうした連絡不行き届きがさらに亀裂を深めることを彼らは知らない。それほどに彼らは幼いのである。
 
 相撲の世界は勝負がつきもの、そして勝負の世界は厳しい。だが、家は厳しさだけでは持たない。それは各家の甘えとか馴れあいを意味するのではない、何か事がおきたとき支え合う姿勢が肝心なのである。相撲は土俵で、冠婚葬祭は家でおこなうのが習わしではなかったのか。
 
 貴乃花よ、土俵の上に棺は置けまい。だれが何といおうと後継は貴君である。貴乃花もずいぶんと偉くなったものだ、偉くなりすぎて傲慢になったか、世間からそういわれないために、相撲社会と世間の常識を綯い交ぜにせず、生みの親のことばに虚心坦懐に耳を傾けなさい。

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