2005-04-28 Thursday
至言
 
 家族が不慮の死を遂げたとき、私たちの心に去来するのはなんだろう。何人といえども妻や子、兄弟の突然の死に衝撃をうけない人はいない。無念といえばあまりにも無念、つらいといえばこれにまさるつらさもないだろう。それにくらべれば、明日の見えない辛さなど何ほどのことがあろうと思えるつらさである。
 
 人を支えることのできる唯一のものは人である、犬や猫が支えてくれた、そう言うのは支えるべき人がいないか、いても背を向けてきたからである。明日が見えずとも、支える人がいれば生きてゆける。一本の木からすべての枝葉を取り除いても根がのこる。根があって水があればふたたび枝葉は生える。山や森が支えてくれた、そう言うのは 父、母を山や森にみたてたからである。
 
 人から人を奪えば人はどう生きていけばよいかわからなくなる。それほどに人は互いに支え合っている。そして、さびしがりやなのである。家族の突然の死に直面し、悲嘆にくれている人をみて私はことばを失う。ご冥福をお祈りいたしますとはどうしても言えない、葬儀屋のようにはいかないのだ。
 
 のこされた家族が口々に「無念です」というのを聞いて私はいたたまれなくなる。家族の苦衷を察し、神はなぜかくも厳しい試練を課せられたのかと、五寸釘を胸に突き立てられたような痛みを感じる。だが涙は出ない。子や配偶者の不慮の死に直面し、無念、残念のひとことも言わずこういうことを言う人がいる。「これが運命だと思います。子供の分まで私たちが生きてゆきます。子供もきっとそう望んでいると思います。」
 
 これにはどうしようもない、こらえてもこらえても涙がとまらない。血縁の死を決してむだにはしたくないという遺族の健気さに心打たれ、涙が堰を切るのである。試練のあまりの厳しさ、大きさに負けまいと必死になる家族のすがたがそこに在る。これを至言といわずなんと云おう。
 
 だからあえていう。JRの役員さんよ、ご遺族の担当者に経験のない若者を配置すべきではない。経験のなさ、若さは一方で貴重なものかもしれぬが、他方で、人の心がわからないのだ。彼らは喜劇には対応できても、悲劇に対応する何ものも持ち合わせていない。
君たち役員は学業成績は優秀でJRの幹部になれたろう、しかし、心を察するすべを学んでこなかったようだ。人がたとえようもなくつらい目にあったとき、人を救うのは人のやさしさである。
 
 それは学業の世界とは無縁で、経験で学ぶほかないのである。再発防止に最善を尽くすのは当然のこととして、これ以上見苦しい言い逃れなどせず、遺族のかなしみと正面から向きあい、償うには何をすべきか心を砕き、最大限の補償をしなさい。

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