2005-04-26 Tuesday
無心と放心
 
 兵庫県尼崎市のJR尼崎駅付近でおきた脱線事故の惨状に私は衝撃をうけた。電車が脱線した潮江4丁目は少年時代をすごした家に近く、潮江の隣の久々知は私が生まれた土地である。
亡くなられた方々のご遺体が安置された尼崎総合体育館は、以前は草野球場があって、そこで何度か試合をしたことがある。高校3年までその辺りに住んでいたし、長じても仕事場が事故現場にきわめて近かったから、現場の地理にも精通している。
 
 大きな事故がおきるたびに思うことは同じだ。亡くなった人と助かった人の生死を分かつものは一体なにか。偶発的な事故にせよ、人為的な事故にせよ、わずかな偶然や思いつきで生死を分かつものはなにか。それを運命というのはたやすい。だが、すべて運命ということで片がつくのだろうか。
 
 日本の鉄道といえば、諸外国にくらべて事故発生率がきわめて低いことから、世界に冠たる安全神話をつくりだしている。だが、そういうこととは別に、考えても考えても上記のことが頭から離れない。事故はいっときのことかもしれない(同じ乗客が同じ事故に遭遇することはないという意味です)が、上記の疑問は永遠のテーマと思うからである。
 
 とうてい手に負えぬテーマであるが、なぜかいつも同じことを思う。ところで、事故に遭遇した方々、お亡くなりになった方のご遺族の多くは、不慮の出来事に茫然自失となっておられよう。そのような時にこのようなことを記すのは不謹慎のそしりを免れないことでもあろうが、しばしおつきあい願いたい。
 
 この世には似て非なるものがいっぱいあって、そのひとつが「無心と放心」であるように思う。般若心経に「色即是空」、「空即是色」という経文がある。「色」は人間の行いのすべてであるが、あえて「色」の意味を男女の性行為に限定するとすれば、行為の最中は「空」、すなわち、ほかのことすべてを忘れ夢中になっている状態のことである。(「色」という字は性行為を表すという説もある)
その状態を無心という人もいるが、私はそれは無心ではなく放心であると常々思っている。無心と放心はあきらかに違う。色即是空が無心なら、遊び呆けている人はみな無心ではないか。
 
 茫然自失と色即是空の「放心」はむろん意味合いが違う、だが、どちらも心が放れた状態にあることは同じである。無心との違いは、きょうの脱線事故における救助隊のようすを見れば論より証拠。
 
 無心とは、心のなかに何もない状態のことをいうのではあるまい、ひとつのこと以外にほかのことは心に入らない状態をいうのではあるまいか。
救助にあたっている人は、救助以外のことは心になく、ひたすら救助に没頭する。それが無心ということではないだろうか。生存の確認されていない家族が、どうか生きてかえってくれと必死に祈る。それが無心ではないだろうか。
 
 何かに懸命になる、とりわけ、人のために尽くす、祈る、ほかのことは忘れて。そういうときに人は無心でいられるのではないだろうか。そして私はそこに崇高さを見る。
崇高さは私にとって自然のなかに在る荘厳な山のことではなく、踏まれても踏まれても決して人を踏まない人のことであり、傷つけられても傷つけられても決して傷つけない人のことである。私は、そういう人に崇高さと真の無心を見るのである。

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