2005-01-16 Sunday
なつかしい顔ー女子駅伝
 
 特に所用のないとき見るスポーツ番組がいくつかあって、そのなかでも上位にランクされるのが表題の「全国都道府県対抗女子駅伝競走」である。
 
 各ランナーが京都の町の名だたる大通り‥西大路、北大路、丸太町、白川、東大路、今出川など‥を走り、どの通りも私が若いころつれあいと何度も歩いた通りであるから馴染みがふかく、彼女たちがどこにいるか立体的に把握できるということもある。
 
 九区42.195キロを47都道府県から選出された中高大学生と社会人423名が競い合う女子駅伝はおもしろい。どこがどうおもしろいのかというと。
私は順位ではなく顔を見る。顔といっても美しさを見るのではない、ランナーひとりひとりの顔のちがいを見るのである。
 
 若い女性の多くあつまってくる場所に行くと、10人に3,4人はおなじような顔に出くわす。それらの顔はおおむね無機質で、髪型、服装、バッグ、靴までおなじであるから、さらに没個性的に見える。女子ランナーとて、それぞれに似たようなユニフォームを着用し、髪型もほとんどがショート・ヘアである。だが、それにもかかわらずみな異なる顔をしている。
 
 個性は同じ髪型と服装をしているから失われるというものではなく、その人その人の内部からあらわれ、かたち作られてゆくものだということが手に取るようにわかるのが女子駅伝なのである。何年も前からタスキを手わたす地点でのランナー全員の顔を注視しているが、まことに見事に423名の顔はぜんぶちがう。
 
 その顔のどれもが単に個性的であるのみならず、みなハツラツとして実にいい顔をしている。大きな声ではいえないが、美形でないランナーも美形に見える。それはとりもなおさず彼女たちが無機質に縁がなく、生き生きしているからだ。だから同じものを身につけていてもそのちがいがはっきり表出されるのである。
 
 私はそれらの顔に無性になつかしさをおぼえる。いまはもう都会では失われた美しいかがやきである。かつて、もしかしたら40年か45年前、ハツラツとして美しい顔は町にあふれていた。なのに、いつのころからか急速に消えていった、あのなつかしい顔を私は女子駅伝に見るのである。

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