2004-11-06 Saturday
両陛下のお見舞い
 
 きょう午後、天皇・皇后両陛下が新潟中越地震の被災者を見舞うために自衛隊機で新潟県をご訪問された。今上天皇と皇后さまが被災者を見舞うのは、1991年の雲仙普賢岳噴火、93年の北海道南西沖地震、95年の阪神大震災に次いで四回目である。
 
 95年の阪神大震災で被災した私は、両陛下がお見舞いされた映像をテレビで拝見し胸が熱くなったことを昨日のことのようにおぼえている。この世は何かと理屈が横行、闊歩しているが、理屈を凌駕するものが存在するといえば、大自然と今上天皇と皇后陛下だけではあるまいか。
 
 私たちの世代は、昭和天皇より今上天皇と皇后にたいして崇拝と敬愛の念を強くもっている。それは理屈ではない、頭で考えたものではなく、心、あるいは魂というべき何かが両陛下への敬愛と崇拝の念を呼びおこすもののようである。私たちが感動と呼んでいるものも頭が喚起するのではなく心が喚起するのであってみれば、心は脳と深い関係があるのだろ。
 
 この世は実にさまざまな人間がいて、皇室費の削減をいう人もいる。しかし、それをいうならまず先に官業癒着による税金のドブ捨てを廃止すべきである。一個2万円の機器がある官庁に30万円で納入されたという例は後を絶たない。いや、こんな話をしたくて書いているのではない、天皇・皇后両陛下のかけがえのなさを書きたいのだ。
 
 私たちの身体のどこかに魂の住む部屋があって、ふだんは出番といったものもない魂が、事あるときにそこから出てきるのではないだろうか。両陛下のお姿を見たり、お声をきいて魂は出てくるのではないだろうか。万世一系という言葉は死語になった感はあるが、また、頭で考えれば抵抗感のないわけのものでもないが、魂と魂が不可視的領域でつながっているのかもしれない。
 
 閑話休題(それはともかくとして)。
両陛下が昭和天皇ほかの天皇・皇后両陛下と異なるのは、ご自分たちに何ができるかということをお考えになった上で、率直に行動にお示しになるという点であるように思われる。
歴代の天皇、皇后のなかで同じことを考え行動に移したのは、史書によれば聖武天皇のお后・光明皇后で、貧者と子供のための施設「悲田院」をつくり、庶民救済の一助とされた。
 
 奈良時代はいまとちがって皇后の行為の自由度は高く、それを思えば、今上天皇も皇后陛下も、ご自分でこうと思われたことでも、余程のことでもなければ実現不可能である。民間の私たちはその点まことに自由であり、義援金の寄付、ラーメンや牛丼の無料配給、ボランティアほか、気持と時間さえあれば概(おおむ)ね実行できる。
 
 両陛下がご訪問された長岡、小千谷の避難所にいた被災者は、世代を問わずさぞ癒されたことだろう。天皇、皇后陛下の慈愛に満ちたお顔を拝見しただけでも感激した、励まされたという人は、21世紀のこんにちでもすくなくないだろう。魂は連綿と古代とつながっており、感応しているのである。

前頁 目次 次頁