2004-10-26 Tuesday
被災者の立場
 
 今年の夏は異常続きだった。記録的猛暑は天変地異の近いことを予感させた。同時に自然の脅威に適応できない人々の衝動を誘発させた。そして秋になっても台風が容赦なく上陸し、そのつど列島に大きな被害をもたらした。
大雨洪水も土砂崩れも地震による家屋の倒壊もアナログの世界で現実に起きたことである。仮想現実のなかでの洪水や地震なら何人死者が出ても問題にならないが、現実の世界で起こったことはそうは問屋がおろさない。家や家族を失った人々のかなしみは、そういう経験をした者でなければ容易にわからないのだ。
 
 新幹線が開業以来はじめて脱線したとメディアは連日のごとく報道に余念がない。私は脱線の映像を二度見て、三度目にはゲップが出た。たしかに脱線し、車両の一つが40度ほど傾いたのは事実であるが、幸いなことに死者もけが人も出なかった。それをことさら執拗に報道するのは単に史上初だからである。メディアはとかく史上初という言葉に岡惚れする悪い癖がある。
メディアが固執することはほかにもある。彼らは台風であろうが地震であろうが、自分たちの書いたシナリオ通りにコトを運ぼうとする。視聴者に伝えたいテーマをあらかじめ想定し、洪水や地震のような立体的で流動的な自然災害をも鋳型にはめ込む。
 
 メディアの望む被災者のコメントはつねに紋切り型であり、いまの心境はと問われて被災者全員が同じことを言うはずもないのにそれを期待する。なに、彼らが紋切り型のシナリオしか書かないからである。被災者は百人百様、その人の年齢や性格、置かれている生活状況によって思うこと‥恐い目にあったという思いは同じ‥は違って当たり前なのだ。テーマなどどうでもよいではないか、報道の使命はありのままを伝えることである。
 
 地震が起きると地質学者の出番となる。地質学の専門家は地球内部の変化を研究していて、殻内の大規模な変動にすこぶる関心を寄せているが、彼らにとってマグニチュード「7」以下の地震は、直下型といえどもあまり問題視されず、報道や局アナがきいても彼らの歯切れのわるいのはそのせいといっても過言ではない。要するに規模が小さいのである。
同じことを繰り返すが、被災者の気持は被災者になってみないとわからない。みじめといえばあれほどみじめなこともほかに少なく、家と家族の大切さ、かけがえのなさをいやというほど思い知らされる。
 
 阪神大震災でタンス、冷蔵庫など家具・調度品のほとんどがすさまじい勢いで倒れ、ガラスの破片が肉切り包丁のごとく布団に突き刺さり、数百キロはあるワードローブが頭数センチまでせまり、夫婦ともども九死に一生を得、つれあいの肉親の家に身を寄せた私は、あの日を昨日のことのようにおぼえている。
身を寄せる場所があったのは不幸中の幸いというほかなく、それゆえ、テントや車内で夜を過ごさざるをえない人たちの苦労に思いをはせるのである。
 
 震度6以上の揺れがどれほどのものかは体験した者だけが知っている。震度7の地震がきたとき、揺れのあまりの激しさにガスの元栓を締めにいくことなどとうてい叶わず、その場にへばりつくだけで何もできなかった。いまでも震度4以上の地震がくるとゾッとするのは、あのときの激しい揺れを身体がおぼえているからだ。
幸せな人はみな同じ顔をしているが、不幸せな人はそれぞれ異なった顔をしているといったのはだれであったか、書かねばならぬことは山ほどあるが、おおぜいの被災者の顔がまぶたに浮かぶ。
 
 思えば電話がまったく通じず、電車やバスも運休のなか、つれあいの友人の安否をたしかめたい一念で、ふたりで20数キロの道をトボトボ歩いた。その道中で私たちが見たものは地震で倒壊した無数の家屋と、崩れてバラバラになった壁と家具の間からのぞく歯ブラシ、コップ、手ぬぐいだった。
その歯ブラシとコップがキティちゃんやミッキー・マウスの子供用キャラクター商品だったからあわれさもひとしおで、なぜこんな目にあわなければならないのか、怒り、やりきれなさが次から次へと襲ってきた。命があるからそんなことを感じる。
 
 京阪神のテント村はメディア各局がさかんに報道したせいか、すっかり有名になった。仮設住宅が建設されて多くの被災者が肩寄せあって移り住んだ。国と県とが一丸となって被災者用集合住宅の建設もはじまった。抽選に当たって、仮設住宅から新築の公営マンションに住める人は幸いだったが、その影で抽選にもれた人々の悲哀、さらには、仮設住宅での中高年の孤独死があった。
 
 神戸、西宮、宝塚と長岡、小千谷、十日町とでは風土、人的交流は異なるだろう。神戸には存在した孤独死は小千谷や十日町にはないかもしれない。だが、中越地方にはない豊富な物資が神戸近隣の大阪には存在した。物資の豊富さは自治体の規模に比例する。
新潟が東京や大阪になるわけにはいかない、とはいっても物資だけで被災者が癒されるわけのものでもない。同じ体験を共有した者同士が時間をかければきっと癒される日も来る。焦眉の急は、人的支援も含めてあたりまえの支援をすみやかにおこなうことであり、すべてはそこからはじまるだろう。家族が笑って暮らせる日の遠からず来ることを心より願ってやみません。

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