2004-09-06 Monday
テロの世紀(2)
 
 『破壊に向かう欲望は性欲や所有欲より強烈で、自他の生命を犠牲にしてもとどまることをしらない。』とこの項「2003年12月3日・テロの世紀」に私は記した。またこうも記した、
『この欲望の前では本能も五欲も影がうすくなる。抑圧によって生じる妄想と復讐欲にかられた人々にとってはもはや、友好も情愛も、ましてや理性という足かせはどうでもよく、ただまっしぐらに狂気の道をつき進む。』
 
 今世紀に入ってからのテロは、前世紀に多くみられた「ある目的のため」のテロではない、テロ自体が自己目的化されたテロであり、今後テロのさらなる無差別、多発化といった流れも加わって予断を許さない。その恐れが北オセチア共和国で現実のものとなったいま、私はメディアの流す映像にただただ戦慄をおぼえるのみである。
 
 アルカイダなどのテロリスト集団が資金と軍事技術面で援助もしくは協力する相手はもはや、アルカイダと同類の血に飢えた破壊者である。彼らに煽動され操られているのは、欲望と卑屈がはけ口を求めるイスラム教原理主義の若者なのだ。多くの子供たちを冷酷非道にも殺害するという行為に対して、いかなる弁明、理由、背景も無効である。
 
 スペインの列車爆破テロ、モスクワの地下鉄爆破、航空機同時爆破。テロ首謀者の狙いは何か。プーチン政権の打倒といったテロリストにとっての似非(えせ)大義名分が見えず、血に飢えた獣が単に社会不安を狙って犯した行為と見るのが妥当であるが、遺族と市民の憤りが高じて、ロシア政府や北オセチア共和国政府への責任追及を叫ぶ市民の輪が広がるとすれば、それこそテロ首謀者の思う壺だ。テロ首謀者は広大なロシア‥コーカサス地方かもしれない‥のどこかにイスラム国家を樹立するという妄想をもっているであろうから。
 
 ところで、民放テレビに出演するジャーナリストはなぜジャーナリスト本意の発言しかしないのだろう。ロシア治安当局のメディア規制と、ジャーナリストへの弾圧が多いなどと。
犠牲になった子供たちと遺族への思いは画面を見るかぎり稀薄というか皆無である。ロシア政府の手法は今も昔も大差なく、事が起きたらジャーナリストどころか一市民に対しても圧力をかけてくる。
 
 9月1日は始業式。子供たちは家族とともに花を持って学校に向かい、先生と顔を合わせて、まるでパーティのようににぎやか。テロリストはそんな日の子供たちを、家族を狙ったのだ。
 
 憎むべきはテロリストであり、かなしむべきは子供たちと家族の死である。また、あのような異常事態、緊急事態に偶発的要素はつきものである。銃撃戦を仕掛けたのが治安当局、テロリストのどちらが早かったかを論議したり、報道のスムーズさが損なわれたことを非難している場合か。対応のまずさを指摘する前に最適な対応策を明示しなさい。
 
 今世紀のテロは君たちの範疇のテロとは明らかに異質なのだ。どうやってテロと対処すべきか、これが難問なのである。自爆テロで死んだテロリストはイスラム原理主義者のみならず、イスラム急進派からも殉教者とみなされる。一般のイスラム教徒のなかにも彼らを殉教者とみなす者もいるだろう。殉教者として死ねるなら‥といった信念が多くのテロリストの支えとなっている。
世界のいたるところがテロの標的となりつつある昨今、各国が一致協力してテロの標的になりそうな地域の安定化を模索している。テロ首謀者をどうやって逮捕し、そしてテロリスト予備軍を縮小もしくは無力化するか、焦眉の急なのである。

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