2003-10-24 Friday
定年制の是非
 
 政治にも定年がある、そういったのは小泉自民党総裁である。いつまでも年寄りにがんばってもらうのは弊害がある、老害はよくないとのことである。もっともな話だ。だが、もっともだからすべてよいとは限らない。年寄りにも種々あるし、それは若者にも種々あるのと同様である。
 
 今回は中曽根、宮沢両氏が対象になった。両氏は総理経験者ゆえ例外とするかどうかが取りざたされたが、結局小泉さんは例外を設けず、自民党比例単独候補はなべて73歳定年という。はたしてそれでよかったのだろうか。
 
 あるほうがよいと思うが、県庁や市役所の助役は定年がない。そんなバカなと思うが事実である。都道府県の首長も定年がない。73歳定年なら、石原都知事は任期中に定年となる。
石原慎太郎氏のエネルギッシュさというか絶倫さからみれば、80歳にしてなお盛んであろう。石原都知事タイプは定年を設けないほうが正解である。石原氏なら出処進退は自分で決めるだろう、道路公団総裁・藤井氏のように、地位や身分に恋々とする人ではないからである。
 
 それと同じ意味で中曽根・宮沢両氏は地位、身分に執着する人ではなかろう。中曽根氏は、まだまだ自分がこの国に役に立つ政治家であると自負しておられる。その自負心ゆえに引退したくないのである。十把一絡げに73歳定年というのも面白味に欠ける。
 
 塩川さんのように、健康上の理由とか、後進に道をゆずるとかの理由で引退するのならともかく、中曽根・宮沢両氏の頭はフレキシブルで、しかも経験、知識共に他の追随を許さぬほど豊富。とりわけ宮沢氏は見事に柔軟で、融通もきく。
それだけの人物だから政治家に拘泥せず、議員の肩書きを付けなくても活躍できるという考え方もある。もっともな話だ。どちらにせよ決めるのは当人である。
 
 20代、30代でも頭の固いのもいる。頭だけでなく心も硬直していたり、なかには凍っているのもいる。Windowsじゃあるまいし、そう簡単にフリーズするなよ、そう言ってやりたい若者もそこかしこに点在するのである。それに較べれば、両氏の頭は柔らかい。
 
 老害よりも若害、私はそっちのほうが多いと思うし、恐いと思っている。老害は紆余曲折、変化に富み緩急自在、テンポもゆっくりだが、若害は一直線、テンポも悪く修正もきかない。それにしょっちゅう暴発する。若者は怠慢を自慢するが、年寄りは恥じる。照れ隠しに(怠慢を)自慢する者も怠慢の範疇に入れてよい。そして近年、個性的な年寄りが多くなりつつある。熟成は力なり。
 
 彼らには世の中のお邪魔虫になりたくないという自覚があり、溌剌として生きたいという願望を心中に秘している。ところが、若者にはその自覚と願望が稀薄である。そんなものを持たずとも若さだけで突っ走れると思っているからである。ところがどっこい、肝心なのは自覚、認識、熱意の有無なのだ。肉体の若さは単なる若さ、若さだけで突っ走れるほど世の中は甘くない。
 
 さてさて、ここまで大過なく難局を凌いできた小泉さんであるが、ここへ来て目測を誤ったのか、最近試行錯誤が目立つ。藤井総裁の解任は急がなくてもよいなどはその典型。急がなくて構造改革にどう対処するというのか。藤井氏のような人が居座っていたら、物事が先に進まない。
悠長に構えていては、任期の3年はアッという間に過ぎてゆく。悠長内閣、棚上げ総理などと言われないよう、改革はあわてず急いで実行してもらいたい。切にそう願う。
 
 ついでに定年制の例外について再考してもらえればよいのだが‥。
時代は刻々と移り変わりつつある、すべては時の流れということなのだろうか。
年寄りの役に立つ現場を私はしばしば体験してきただけに釈然としないし、惜しいと思うのである。

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