2003-10-23 Thursday
気にしない女
 
 近年激増したのがこれ、気にしない女、無論気にしない男も増えた。
何を気にしないかといえば、事はほとんどすべてに及ぶ。隣に人がいても大声でしゃべる、場所は問わない、エレベーターの中、車内、駅のホーム、劇場、レストラン。傍若無人ということばは彼女らのためにつくられた‥と思えるほどのガチャ子ぶりである。
 
 他人がどう思おうが一切気にしない。迷惑になっても気にしない。そもそも迷惑が何か分かっていない、分かろうともしない、聞く耳をもたない、自分さえよければよい。
そういう輩が急増し、ありとあらゆる所を跋扈している。下は小学生、上は30代後半まで。
 
 そういう類の者はまたそういう類の者を求めてあつまる。ひとりで行動すると目立つが、衆をなして行動すれば‥もっと目立つだろうに。いつ、だれが、辛抱すればバカをみると教えたのだろう。
1970年後半〜1990年代の教育と世相は辛抱を悪徳とみなしたのだろうか。それとも、君の両親がそういう価値観の持主なのか。そうではあるまい、辛抱しないのは君自身であろう。
 
 気にしないのはむしろ長所だ、美徳だと君たちは思っている。かなしいこと、つらいことがあっても気にしない、そりゃそうだろう、そういう場合はネヴァー・マインドといって自らを励ましたり慰めたりする。君たちは何もないのに気にしない、そこが困る、迷惑千万である。
 
 公衆道徳とか公共の福祉とかはもう死語になった、公衆便所が死語になったように。
公衆って何?そういう時代なのだ。ハイカラーということばも死語になったが、ハイカラーは表現をかえて今も生きている。言い方は人によっても、場所によっても異なるが。
 
 気にしないことがいま風であり、おしゃれだと思うのは勝手だが、それを何の頓着もなしに実践するから困るのだ。人なんか気にしない、迷惑かけても気にしない、そりゃ君はそれでもよいだろう、がしかし、私たちはよくない。実践する前に考えればよいものを考えない。
考えること、努力することはインプットされていないからであるが、そのくせ、努力ということばは大嫌いなどと言う。ダサイのだそうだ。ダサイのは努力ということばではない、君たちだ、君たちの言動がダサイし、うるさいし、なのに冷ややかである、私は常々そう思っている。最もダサイのは、最も洗練されていない人間のことであり、それは、人に迷惑をかけて顧みない人間のことである。
 
 皮膚を刃物で切れば赤い血が流れる。つらいことはだれだってつらい、イヤなことはだれしもイヤなのだ。君たちだけがつらいわけでも、かなしいわけでもない、君たちのからだの血管を流れている血の色が青くはないように。君たちはただ怒りっぽいのである。辛抱できず、すぐ怒る。
辛抱も我慢もしないで、闇雲に怒るほうがストレスも発散できてよいかもしれない、そのうち血液が逆流して、逆流が正常の流れになるかもしれないが。
 
 前世紀末から今世紀初頭にかけて犯罪が激増した。不法入国者による犯罪も増えたが、同胞の凶悪犯罪も増えた。私は表題の「気にしない」ことが起因しているのではないかと秘かに思っている。誤解を恐れずにいえば、加害者が気にしない女性である場合が多く、そしてまた、被害者も気にしない女性が多いのではないかと訝(いぶか)っている。
 
 私たちの若かった頃、そりゃ犯罪はあった、凶悪な犯罪も起こった。ただこれだけはいえる、私たちは天や神を意識した。宗教とは関係ない、どこの宗教団体に属したわけのものでもなく、ただ、天、神への畏怖とでもいうか、天や神がどこかでみておられるという意識である。
だから気になった。犯罪であれ何であれ、人に迷惑をかけたら報いがくる、天の裁きがあると。
 
 天に対するそういうある種のおそれ、畏怖の念が人を守ったり、道をはずさないよう諭したりした時代の話である。過去も現在も、そして間違いなく未来も、私たちは気にすることだろう。気にするなと言われても気にしないではいられないだろう。

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