2004-08-21 Saturday
40年ぶりの熱中
 
 いま思い起こしても、寝る間も惜しんでかくも長時間オリンピックをみたことはなかった。全競技が衛星放送放映されるという環境がととのったことにより、それまで放送されなかった競技がみれるようになったこともあるし、近年、オリンピックの正式種目となった競技もあり、私たちが聴視可能なものが飛躍的にふえたこともある。みようと思えば一日みれるという状況が私たちに興奮と睡眠不足をもたらしたのであってみれば、そういう流れに乗るのも一興である。
 
 久しぶりに獲得した金メダル数が多い(8月21日現在12個)ということもあってのことか、これほど真剣にオリンピックをみるのは1964年東京オリンピック以来、40年ぶりである。
当時私は高校生だった。貧しさをしのいで復興を遂げた日本が名実ともに新たな一歩を踏み出そうとしていた。羽田と都心をむすぶ首都高速が建設され、東京ー大阪を新幹線が走った。
 
 各家庭に1台テレビが普及し、日本で初めての開催ということもあり、その年はオリンピック熱が急上昇していた。個人総合優勝の遠藤幸雄、跳馬の山下、吊り輪の早田など男子体操陣の活躍、重量挙げの三宅義信のパワーなど日本選手は多くの感動を私たちに与えてくれた。
 
 日本が獲得した金メダルは16個であるが、そのなかでもっとも鮮明に記憶にのこっているのは女子バレーボールである。旧ソ連との決勝戦は、子供から老人まで日本人のほとんどすべてが観戦していた。優勝が決まったとき、泣かなかった者はいないと思う。あの瞬間、テレビの前にいただれもの目から大粒の涙があふれ出た。いま思い出しても目頭が熱くなる。
 
 女子バレーボールの対ソ連戦のテレビ視聴率は95.4%、昨今のインチキ視聴率ではない、正真正銘の視聴率であり、その記録は驚異というほかないが、それほどまで多くの人々が熱中したということである。
 
 私たち戦後派とちがい、戦前派の多くは対ソ連戦に特別な思いがあった。ソ連は終戦間際、日ソ不可侵条約を一方的に破棄、日本人が移住していた旧満州に侵攻し略奪のかぎりをつくしたのだ。ソ連兵に殺されたり自決した無数の日本人の無念を思えば、何が何でもソ連に勝利してもらいたい。女子バレーボール選手によって戦前派の望みを叶えてもらいたかったのである。
 
 閉会式もそれまでにない型破りの閉会式であった。選手すべてが三々五々、思い思いの衣装と恰好で互いに肩を組んだり、歌を歌ったりして闊歩した。
 
 しかし、東京オリンピックをみた人の多くはすでに鬼籍に入った。マラソンでゴール前わずかに追い抜かれて3位となった円谷はメキシコ五輪のプレッシャーからか命を絶った。女子ハードル競技の依田も自殺した。オリンピックは栄光と挫折の象徴であった。
円谷が母にのこした遺書はあまりにも正直な自己を語って痛々しい。人生の胸突き八丁で自ら下した決断。母の愛をもってさえも救われなかった円谷。オリンピックの持つ苛酷な側面だった。
 
 あれから長い長い年月が過ぎていった。アーチェリーで銀メダルをとった山本博選手は、「20年かけて銅が銀になったから、あと20年かけて金を取りますよ」と言った。41歳のベテランだから言える味のあることばだ。山本さん、東京オリンピックのときは1歳だったのか。
 
 今回のアテネ五輪では、柔道の表彰式のとき、選手の出身国や名前を読み上げる女性の声が印象的だった。とりわけ、金メダリストの名を呼ぶとき、心から、いや、あれはハラからというべきか、ハラから心をこめて、景気よく、高らかに名前を呼んでいた。その声が優勝気分をもり立て、あでやかな花をそえていたように思う。

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