2004-08-18 Wednesday
そして怪物は戻ってきた
 
 彼はアトランタ・オリンピックで3試合を投げ、一度も勝利投手になれなかった。終盤までほぼ完璧な投球をつづけても、終わってみれば負けていた。日本球界を代表するエースは弱冠19歳だった。
 
 球界最強投手とそうでない投手とのちがいはただ一つ、ランナーを得点圏に背負ったとき、自分の一番いいピッチングができるかできないかである。ランナーが二塁や三塁にいないとき、そこそこの投手ならだれでもそこそこのピッチングが可能である。だが、得点圏にランナーがいるときは投手も人の子、にわかに緊張感が高まり、それまでのリズム、平常心を失う。
 
 これは投手にかぎったことではない、攻めに強い人でも守りには弱い。田中真紀子、鈴木宗男のような攻撃型人間でも守りには弱いのである。たびたび指摘されるように、人は攻撃中に弱さを見せることはまれだが、守りに入った途端に弱さを露呈する。それを回避するには、守勢に入ったとき攻勢に回るのがよいという、が、口でいうほどうまくいかないのが実状である。
 
 野球でノーアウト満塁という場合、ピッチャーが平常心を保つのは至難のわざだ。そういうピンチを何度も切り抜けた経験があったとしても、オリンピックとなると様相はガラリと異なる。
アテネ・オリンピックの対オランダ戦で先発した近鉄のエース・岩隈の、ペナントレースで見せたことのない般若のようなすさまじい形相、二人目のリリーフ投手としてマウンドに立った広島のエース・黒田の夜叉のごとき表情が何よりもそれを如実に物語っている。
 
 彼を平成の怪物と命名したのはむろんマスコミである。元号が平成にかわって以来、怪物と呼ばれたのは彼だけではない。マスコミは何かにつけそういう呼び名をつけるのが好きであるし、他社に先がけての命名を競っている。しかし怪物と呼ぶに値する「平成の怪物」はただ一人である。
 
 彼は8月17日、キューバ戦で先発した。立ち上がりから見事なピッチングをつづけ、さすが日本のエースというにふさわしい投球内容だった。だが4回に予期せぬことがおこった。彼の投げたボールは鋭く打ち返され、それが彼の右腕を直撃したのである。
解説していた星野仙一氏が小さく叫んだ。彼はいったんロッカールームに引き下がった。その時テレビをみていただれもが彼の途中降板を覚悟し、それ以上に、彼のケガの行く末を案じたのではないだろうか。
 
 彼がロッカールームに行っているわずかな時間、星野氏はふだんの星野氏ではなかった。ひたすら彼のことを心配していた。きょうはもう投げさせてはだめですよといった。
待つこと数分、はたして彼はその日初めてマウンドに上がる投手の風情で投球を再開した。
 
 彼の脳裡には4年前のアトランタでの敗戦がいまだ消えざる記憶としてのこっていたのかもしれない。いや、彼の心のなかには長嶋監督が彼に贈ったメッセージの存在があったろう。彼は日本出発の前に長嶋監督から託されたメッセージをホテルの部屋に貼って読み返しているという。
 
 そしてまた、キューバ戦に向かうバスの中でヘッドコーチ・中畑が読み上げた長嶋監督の、「キューバ野球を倒すことは私の悲願だった。今日、その日が来た。何も臆することはない」という言葉に熱い何かを感じたのかもしれない。
しかしそれにもまして彼の胸中にあったのは、エースは何があっても完投しなければならない、完投して勝利しなければならないという信念である。それが昭和の大投手・金田正一をして「野球に取り組む姿勢がちがう」と言わしめた所以なのだ。
 
 彼の気迫はキューバの強力打線にまさった。完封目前の9回ワンアウト後、ヤクルトの石井にマウンドをゆずったが、そのときも、石井がマウンドに上がるまで待って、自らボールを石井に渡して何事かつたえた。投球内容だけでなく、そうした姿勢、態度にも日本のエースたる風格があった。
 
 平成の怪物・松坂大輔は、そうしてふたたびオリンピックに戻ってきたのである。

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