2004-08-15 Sunday
勝負の神は去っていった
 
 かつて最高で金、最低でも金といった谷亮子は、田村で金、谷でも金といって日本をあとにした。
 
 オリンピックに出場するだけでもたいへんなのに、出場すること四度(よたび)、彼女が獲得したメダルは銀2個、金2個である。谷亮子がシドニーよりも何倍もうれしいと口にしたのは、直前にじん帯断裂という足のケガのこともあるが、良き伴侶と分かち合えるよろこびということもあろう。
 
 それにしても強靱としかいいようのない意志、類いまれな集中力である。天賦の才能と人智の及ぶかぎりの修練とで、人はあれほどの結果を出せるのだろうか。テレビ観戦していたら、身体に力が入りすぎて、首がガチガチになった。血圧はきっと200近くになっていたにちがいない。
 
 野村忠宏にも驚愕した。メディアの好きな「前人未到」ということばにふさわしい偉業を成し遂げた。「だれが出ても勝てる60s」と陰口をたたく者もいるが、オリンピック三連覇は立派というほかない。野村忠宏はまさしく歴史となったのである。
 
 勝負を終えたあとの谷亮子と野村忠宏の顔はすがすがしく、やさしさとかがやきに満ちていた。自らのすべてを賭けてたたかうということが、これほどのかがやきと美しさとなってあらわれるとは。
長い時間をかけて稽古に励み、磨き上げ、貯えてきたすべてを出しきったふたり。
 
 1998年8月、甲子園球場で勝負の神は間違いなく存在すると思ったのだったが、あれ以来のご来訪である。あの時、横浜対PL・延長18回の死闘を司ったのは勝負の神さまだといまも私は思っている。あの時、勝負の神は横浜とPLのどちら側にも憑かず、自分の出る幕ではないとただ観戦しておられた、勝負の神であることさえ忘れたかのように。しかし、双方の選手の身に何事もおこらないよう試合を司っておられた。
 
 勝負の神が摩訶不思議な力を授けたのは翌日の横浜ー明徳戦だった。横浜のエース・松坂は前日250球を投げたため先発しなかった。そのせいか、あるやあらぬや、横浜は中盤までに明徳に6ー0とリードされた。だれもが横浜の敗北を予感した。予感せざるをえなかった。
 
 ところが信じられないことがおこった。それまで明徳の好投手・寺本に押さえられていた横浜が6点差を追いついたのである。その時、軽く投球練習をしていた松坂が、腕に巻いていた保護用のテープをベリベリと引きはがしたのだ。それはいま思っても強烈な光景だった。
あの光景を見せたいがために勝負の神は存在するのかもしれない。今回の柔道といい、あの時の高校野球といい、値千金の光景をリアルタイムで見ることができた。松坂大輔は歴史になった。そして、勝利の栄冠にかがやいたかれらの笑顔をたしかめ、勝負の神は去っていったのである。

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