2004-08-10 Tuesday
夏の高校野球
 
 甲子園球場が80歳になり、夏の全国高校野球大会が86回目を迎えた。40年以上甲子園の高校野球を観戦して様々な感慨にふけることがあり、球児のモノの考え方、コトに当たっての身の処し方、ねばり強さと弱さなどを通して人生に思いをはせることもある。
 
 8月9日の第四試合は宮城県・東北対滋賀県・北大津戦で、結果は13ー0で東北の圧勝に終わった。ヒットの数は東北11本に対して北大津8本、ヒット数だけみればわずか3本の差であったせいか、はたまた、北大津に7個のエラーがあり、それが東北の得点に結びついたせいか、北大津のキャプテンはそんなに差のない戦いができたという意味のコメントをしていたが、それはとんでもない間違いで、13ー0という得点差以上に野球に対する考え方に大きな差があった。
 
 東北のピッチャー・ダルビッシュは四死球ゼロ、北大津のピッチャー上田、古川は合計7個の四死球。これはつまり、ヒットを打たれていないのに走者が出たということで、四死球はヒットに値するどころか、ヒット以上に味方チームの雰囲気を悪くする。
エラーにしても実は重大問題であり、味方のエラーはピッチャーの投球に悪しき影響を及ぼす。ピッチャーとしては、ヒットを打たれたわけでもなく、四死球でもないのに、味方のエラーで塁をうめられるのはたまったものではないのだ。顔は笑っても心は泣いている。
 
 東北のヒット数は11本だが、四死球の7個と、さらに北大津の7個のエラーも足せば、ヒット25本と同じなのである。北大津のキャプテンにはそこのところの認識がまったく欠落している。
北大津選手のある保護者の「ダルビッシュはたいしたことがない」というもの言いにいたっては狂言綺語としかいいようがなく、北大津は戦う前に東北に喫敗していたというほかない。
 
 東北のキャプテン・ダルビッシュは北大津戦で全力投球してはいなかった。本気で投げず、いわば肩ならし的ピッチングをしていた。初回の立ち上がりこそピッチャー強襲安打を打たれたが、彼は終始おちついていた。初出場の北大津と歴戦錬磨の東北とでは格が違いすぎたのである。
ダルビッシュは昨春の選抜時には生意気といった印象しか受けなかったが、昨夏の甲子園から見違えるほど変わった。ひとことでいえば大人になった。優れたスポーツ選手は無駄な動きというものがない。無駄な動きは集中力を散逸させる。
 
 今夏の北大津戦は一本調子に三振を奪うことはしないで、130キロ台と140キロ台の緩急をつけた直球で打者のタイミングをはずし、スライダーとカーブを織りまぜ相手に的をしぼらせなかった。球児にありがちな『野球をたのしむ』ということをせず、「頭を使う野球」に専念した。
むろん頭を使ったのはダルビッシュだけではない、東北の打者も相手投手の投球に適応した野球をした。それが結果にあらわれたのである。「野球をたのしむ」のは目的ではなく結果なのだ。
 
 球児は何のために甲子園まで来たのか、苛酷な練習に耐え、熾烈な地方予選を勝ち抜き甲子園に来たのか。遊ぶためではなかろう、まず緒戦を突破して、あわよくば全国制覇を成し遂げるためにやって来たのだろう、それが球児の夢であってみれば。全国制覇のためにはまず緒戦に勝利せずばなるまい。過去、どれほど多くの優勝候補が緒戦で涙を飲んだことか。
 
 私たちが高校野球にもとめるのは、その溌剌とした戦いぶりである。その一所懸命さである。その清々しさである。無駄のない動きをした選手は美しい。彼らのひたむきさ、野球に賭ける情熱に私たちは心打たれる。そして「頭を使う」のも情熱の発露にほかならない。
野球をたのしみに来ただけなら負けて涙することもなかろう、負けて悔し涙の出るのは満足のゆく野球をさせてもらえなかったからである。あるいは勝ちたかったからである。
 
 北大津は東北に野球をさせてもらえなかった。させてもらえなかったのは野球に取り組む姿勢があまりにも違いすぎたからだ。双方のキャプテンの認識の仕方に差があったからだ。だが、甲子園で負けたチームも、相手から謙虚に学ぶ姿勢があればいつか強くなる。北大津がそうなるかならぬかはそれで決まるだろう。
 
  東北高校のエース・ダルビッシュに関しては「今日のトピック」(A TopicT)の『ダルビッシュ・有』(2003.8.30)をお読みいただければ幸いです

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