2004-08-04 Wednesday
反日アジアカップ
 
 1988年のソウルオリンピックでもそうだった。種目は男子柔道であったが、日本人が勝つと会場からいっせいにブーイングがおき、韓国人選手が日本人選手に一本とられたら大変、暴動でもおこりそうな雰囲気に会場は騒然となった。あの頃の韓国はまだ貧しかった、経済的にというよりは精神的に。反日教育にかぎったことではなく、概ね反〇〇という類の教育は、その国の政府および民意の程度の低さを象徴していると私は思っている。
 
 かつてこの国もそうだった。鬼畜米英などという標語を掲げて反米・反英教育を行ったことがある。あれは戦争という特殊事情が存在したからと百歩ゆずっても、時の政府と軍部の精神の貧弱さを帳消しにはできないだろう。軍隊に精神の豊かさをもとめること自体が滑稽である。
精神の豊かさは、いうべきこと、いわねばならないことをいえる土壌、あるいは、いってはならないことをいわない土壌のなかで育つ。徹底した上意下達の世界・軍隊に育ちようがないのだ。
 
 このたびのサッカー・アジアカップでの中国の若者の見苦しさをみると、16年前のソウルを思い出す。柔道の斉藤仁と背泳ぎ鈴木大地が金、シンクロの小谷実可子が銅を獲得したオリンピックだ。冒頭でも記したような韓国人のマナーの悪さに不快感をもよおしたのは少数ではなかった。
韓国の反日感情はその後どうなったのだろう、韓国のテレビドラマが日本で人気があるから反日を標榜する人の数が減少したのだろうか、そんなことはあるまい。
 
 韓国の若者が16年前にくらべると経済的に豊かになったからなのか、それなら納得がゆく。経済の豊かさが即こころの豊かさをもたらすとは思えない、が、多くの若者たちには1+1=2であろう。モノに恵まれれば余裕も生まれよう。無いより有るほうがよいと思うのが人情である。
中国のできの悪い若者とて例外ではない、モノに恵まれずマナーを守れというのは彼らには無理、儒教の国とはいえ若者の思いは同じである。そう考えれば、モノに恵まれなくてもマナーを守る若者は感心ということになる。
 
 なに、競技場でのマナーの悪さは中国人サポーターのある種のはけ口であるという考え方もないわけのものでもなく、はけ口を何にもとめるかという段になったら、そこにアジアカップがあったということにすぎないのかもしれない。
メジャーリーグを観戦すれば一目瞭然、米国民の敵チームに対するブーイングはそれをやらないと損みたいにブーブー言うし、甲子園球場や広島市民球場のヤジもやかましい。もっとも、日本の場合は敵に対してだけではなく、味方に対してもヤジる。だが、いいたいことだけいう、やりたいことだけやるというのでは何の収穫を得ることもなく、何も育つまい。
 
 ブーイングはナショナリズムの発露といったもの言いをする御仁もいる。民族主義、ナショナリズムの高揚は悪いことではない。しかしながら、米国のように内政問題から国民の目をそらしたり、国民の多様な価値観を集約するためにナショナリズムを高揚するのは問題である。欲求不満をくすぶらしている人々がすぐ飛びつくからだ。
中国の若者にしてみれば、戦中に日本軍に虐げられた同胞にかわって憂さ晴らしをしているといった感情にすりかわることもありうる。単なるマナーの悪さがいとも簡単に狂信的な正義感に置きかえられる。恥が自慢となるのである。
 
 スポーツが文化であるとすれば、マナーを遵守するのも文化というべきであろう。黄河文明以来のブンカ大国・中国はいつの間にかブンカ後進国に成り下がり、12億の人口をかかえてテンヤワンヤ、急速な経済成長にともなう混沌を収束させる知恵はあるのだろうか。北京オリンピックは4年後にせまっている。

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