2004-03-26 Friday
日朝日中、日々混沌
 
 対人関係を円滑に保っていくのはいかさま骨が折れる、そういったのは19世紀・1885年(明治18年=六代目菊五郎はこの年、翌年には谷崎潤一郎が生まれている)生まれの祖父であったが、21世紀のこんにち、総じて人間関係をなめらかに維持運営していくにはさらに骨が粉になるほどの細やかな心づかいがいる。
それというのも古今東西、人を懐柔することに長け、賢明で鋭い洞察力をもつ者でも、わかりにくくて勝手気まま、おまけに人望がなく、意見の相違に寛容ではないからである。
 
 意見の相違に不寛容であるのは大いに問題で、国家間や人間の衝突、紛争の半分はこれが原因でおこっているのではないだろうか。米国などは意見の相違を隠れ蓑にして…本当は自国の利権…他国に干渉してくるが、日本海で隔てられたお隣の国々は、意見あるいは見解の相違にきわめて不寛容であり、それを隠れ蓑にすることなく利権を主張する。
 
 意見の相違に寛容であることは実にすぐれた資質というべきで、そういう柔軟性をそなえているかいないかで、その国、そして人々の現在と将来を決定づけるほどの影響力をもつ。
世の中にいざこざと混迷が満ちあふれているのもこれに関わりがあると私は思っていて、もし私たちが寛容であれば、混迷と仲違いの半分くらいは解消するのではないかとさえ思っている。
 
 北朝鮮や中国にかぎったことではないが、面子を家宝のごとく重宝がっている者はいるし、面子と誇りとをごちゃまぜにする者もいて、それに利害がからむとさらに問題はこんがらがって、にっちもさっちもいかないといった様相を呈することとなる。
「面子命」組が意見の相違に不寛容なのは自明の理として、前述の賢明、鋭敏な洞察力をそなえた者のなかにも不寛容な人が存在し、そういう人たちは概(おおむ)ね要職にあって影響力を行使するから困るのだ。
 
 この世は天地初発のときから混沌として、そのカオスなるものを私たちの叡知と理力で鎮め、収束するよう神々は導かれたはずなのだが、中朝の神々と日本の神々とは異なるせいであろうか、意見の相違に寛容さを示さない者のあとを絶えることはなく、日朝関係も日中関係も混沌状態のまま春を迎えた。

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