2004-03-21 Sunday
反戦と権力志向
 
 もう35年以上前のことになるが、私が在籍していた学校は学生運動のさかんなところだった。いくつかの派が構内外で集会やデモを繰り返していたが、いわゆる過激派もそのなかにいて、少数ではあったけれどゲバ棒もって暴力行為に参加する愚かな学生もいた。そうした学生のなかには、卒業後さまざまな分野で活躍した者も数多くいる。
 
 当時といまと変わらぬことのひとつは反米で、だいたい槍玉にあげられる国は米国である。とはいっても、彼らがその後も反米を掲げているかというと必ずしもそうではなく、いつの間にか親米になった者もいる。そして反米から親米に転じた者のほとんどは、他者の力に振り回される立場から他者に影響を及ぼす立場になった者である。
 
 力を行使されるか行使するかで言うこともやることも違ってくるとは妙な話であるのだが、現実はそうなのである。権力をもたない立場にあったとき盛んに反戦を唱えていた者が、権力を手中にするやいなや唱えなくなった、けしからん、そういって口をとんがらしていた者も、自分がその立場になるといきなり豹変する。
 
 力を行使される側、すなわち権力に屈服せざるをえない側におかれている者は常日頃から鬱屈状態にあることが多く、不満とイライラが蓄積している。それを単にまぎらわすだけならことは簡単なのだが、いつかどこかでうっぷんを晴らしたいという思いが心の奥底に眠っている。
これが実はクセモノで、表には出てきにくいうっぷんは、それがいやされるか晴らされるかするまではいつまでたっても心のなかにいすわりつづけるのだ。
 
 それは、子供のころ身内とか親しい者から圧迫された側の人間がいつまでたっても心の隅でその当時のことをおぼえていて、なにかの拍子に突然思い出してはわけもなく立腹するのに似て滑稽でさえあるのだが、そういう鬱屈がよくもわるくも私たちのなかに棲んでいるのである。
 
 死の商人、つまり兵器産業にかかわる企業以外はみな反戦なのであって、だれも好んで戦争をもとめる者はいない。だが人は飽きやすく、いま反戦をいう者も次第に飽きがこないとはいえないだろうし、力をもつにいたって反米から親米に転身しない者がいないともいえまい。
この国の野党などは政権を担った途端に反米から親米に変わる、イヤでもそうせざるをえないだろう、現況下においては。
 
 反戦と権力、あるいは権力志向という一見相反するものが、実は根っこの部分でつながっている。それを私は学生時代に実体験で発見した。そしていまなお見つづけている。

前頁 目次 次頁