2004-02-27 Friday
たとえば‥
 
 おそらくこの国でもっとも忌み嫌われ、名前を口にするさえグロテスク感をもよおす男の口癖が「たとえば」であった。とにもかくにも男はたとえばということばを連発した。その「たとえば」は、男が沈黙を保っているいまも男の怨霊が取り憑いたかのようにさかんにつかわれている。
 
 「たとえば」は特殊なことばでも何でもない、が、あまりにも「たとえば」を多用し、耳にタコのできるほど繰り返しきかされると、鉄格子の奥で男の唱える呪詛が霧状のサリンとなって噴霧されているのかもしれないと思うこともあるのだ。
同じことば、同じ祝詞、同じ呪文を繰り返し唱えるのはすべての宗教の特徴であり、何の意味もないことばの典型のひとつ=「たとえば」を口癖のごとく唱える人は、それがどれほど耳障りの悪いことばであるかを知らない。すくなくともあの男をテレビでみた人は「たとえば」を回避するだろう。
 
 あの男のばあいは例外というほかないが、私は人の評価はその人が何をしたか、何をしなかったかによって決まると思っている。
人はだれもみな過ちを犯す。その人の値打ちが決まるのは、過ちを犯したあとどうするかで評価はわかれるとも思っている。してはならないことをし、なすべきことをなさなかったあとにどう思い、どうするか、そこにしか人を評価する決めてはないのではないかと考えている。
 
 自分のおこないは、それが不正なものであればあるほど、人は自分を正当化しようと血眼になる。私はそういう男女を身近で何度もみてきた。自分のおこないを正当化したからといって何が変わるというのか、人はごまかせても自分はごまかせまい、天をごまかすことはできまい、正当化しようとすればするほど見苦しいだけである。
 
 血縁を死に追いやられた遺族、いまなお重い後遺症に罹っている家族のふかい心の傷跡をどうしたら治せるというのだろう。男が極刑になって何が変わるというのだろう。あの男が心から悔いあらためなければ何ひとつ変わりはしないし、変わる兆しすらみえてこないのである。
 
 一生かかってもいやしきれない傷を心に負った者は、傷を負わせた者が真摯に悔いあらため、謝罪してようやく航海できるのだ。でなければいつまでたっても干潟の舟、潮が満ちないから舟出しようにもできないのである。私はそういうことの体験者だからご遺族の気持がわかる。
 
 犯した罪もまことに罪深いが、その後の男の生き方はもっと罪深い。収監されている元弟子の家族、および被害者の家族を、二重三重にこれでもかこれでもかと苦しめているのである。家族には「たとえば」はない。あるのは、たとえようのない過去と説明しようのない現在だけである。
 

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