2004-02-03 Tuesday
自衛隊派遣に思う
 
 イラクへの自衛隊派遣が本格化しはじめた。派遣についての賛否はすでに国民、メディア、与野党の間で論議の的になった感があり、ここでとやかくいうつもりはない。野党は自民党の政策に対して反対するのが主な仕事ということもあるし、かりに異をとなえない場合でも、そっくりそのまま政府の考えを容認するのもおもしろくないだろう。
 
 頻繁にテロの勃発する国へ赴任するのは、本人にとっても家族にとっても尋常ならざることであることは論をまたない。しかしながら、イラク復興支援のための派遣が自衛隊の任務の主たるものであるとすれば、任務をまっとうしてこそ自衛隊なのである。
たとえはよくないかもしれないが、容疑者がたてこもっていると分かっていて容疑者逮捕に向かわない警察官はいない。そしてまた、火事で家屋が焼けているのに消火に就かない消防士も、山で遭難した登山者を救助に行かない救援隊もいないだろう。彼らはそのために様々な訓練をうけ、自らを危険にさらすことを躊躇しない。彼らの使命感は筋金入りである。
 
 派遣される自衛隊員も、交代の日まで待機している自衛隊員も、またその家族も、日本国民の代表としてイラク復興の一助となることに使命感と誇りをもっていると思われるし、それが彼らと家族の心を支えているのではないだろうか。
 
 人にはそれぞれの持ち場、役割がある。みながみなサラリーマンでもなければ教師でもない、とはいえ、世の中が物騒になった昨今、教師といえども突然の闖入者に身を挺して生徒を守らねばならぬときもある。イラクのような危険な場所という人もいるが、この国も以前に比べれば安全とはいえまい。
危険は予見できないことが少なからずあり、危険が襲ってきたとき、危ないからといって逃げるわけにはいかず、前もって緊急回避できるものでもなかろう。派遣反対論者の考えを敷衍すれば、何もしないのが最良の方法ということになるだろう。
 
 教師と自衛隊員を同列にされてはたまらない(「いかがなものか」というのが今風なのかもしれない。私はこの「いかがなものか」が嫌いである)とのご意見はあろうが、両者の最大のちがいは、守るものが何かということと、いかに守るかということにすぎないようにも思う。
 
 さて、一人の人間が行動をおこしても、行動をおこせば風が吹こう、波も立とう。相手のあることだし、複数の者がいっせいに行動をおこすのだから波風の立たないわけがない、まして相手は職を求めている。今後サマーワにおいて何らかの波紋は広がるはずである。
それまで日本人がまとまって入ったことのない町に復興支援となると、巷間つたえられる自衛隊マネーも落ちる、それを当て込んで動きを活発にする住民も出てくる、住民の利害が衝突することもあるだろう。自衛隊にしかできないことをしにいくといっても、けっして楽をさせてはくれまい。
 
 私はこういう時に三島由紀夫が生きていればなんと言うか、彼の言葉を聞きたい気持でいっぱいある。三島が自決した1970年と現在では時代の様相はかなり異なっており、自衛隊員の価値観も多様化していると思われるが、三島が今も堅固なら自衛隊員を激励しにいくに相違ない。
テレビ出演もするであろうし、どこからか縁故をたよって、直に旭川駐屯所に出向いて演説もするだろう。そのとき三島がいかなる言葉を吐くか、それこそ垂涎の的である。

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