2004-01-26 Monday
新・砂の器
 
 昭和に活躍した評者なら異口同音に「評にかからず」というところだろう、それほどに今回の「砂の器」(TBS系日曜夜9時)の底はあさく、キャスティングは貧弱である。30年前の野村芳太郎監督の「砂の器」を知っている人なら目がつぶれる。駄作というにはあまりに清張を知らず、したがって人間を知らないからである。ドラマを正視できる人はしあわせというほかない。清張が見たら肝をつぶすにちがいない。
 
 中居某の和賀英良は、かなしみも愁いもなく、つまるところ一片の詩情の持ちあわせもなく、世話になった元・警察官をなぜ殺さねばならなかったのか、生きることがどうしてこうもかなしいのかをまったく表現できておらず、いかにも殺人犯という目つきさえしている。
みるからに殺人を犯しそうな男にどれほどの哀感が漂おう。和賀英良の犯行は切羽詰まって殺すというような、すぐに底のみえるものではない、生きることへのどうしようもないかなしみが大罪を生む、その懊悩を表現せねばなるまい。清張が描こうとしたのはそういう人間の無常観なのだ。
 
 生きるということがなぜこんなに悲哀にみちているのか、そういうハラがなければこの役はつとまらない。そして中居某に決定的に欠けているもの‥これなくして和賀英良を演じるのは無理‥がある。それは品である。中居某には品がそなわっていない、だから過剰な演技が醜悪となる。
 
 殺される元・警察官は赤井某。この役は仏の慈悲を持つ人間像を演じることで殺された後のあわれさを増幅させるはず。ところが、赤井某の表現力では昔なじみが出世しているのを知って、なにがしかのものをせびりに来た疫病神。これではもののあわれを感得させようがない。
 
 そのうち登場する和賀英良の父親役は原田某。ハンセン病のため子供を連れて故郷を出奔、お遍路の旅に出る。原田某では栄養が足りすぎて、お遍路もハンセン病もウソになる。彼の体格は役の柄に合わず、発散型のキャラクターは役のニンにそぐわない。原田のガラ、ニンでは旅の途上でのたれ死にするどころか、都会にいついて、一文無しから億万長者になる可能性さえある。
 
 刑事役に渡辺某。獲物を執拗に追うギラギラした目は、極悪人を逮捕する刑事なら適役であろうが、容疑者を追う内に容疑者の出自と彼の父の辛酸を知り、事件の被害者との関係を知り、生きることのかなしさを知ってこの世の無常をみる刑事役には向いていない。
 
 
 これ以上書く必要もないと思う。私が「評にかからず」というのはそういう理由による。
「My Memories」の2001年5月13日に「砂の器」という表題で小文をしたためました。ご一読いただければさいわいです。

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