2024-11-14 Thursday
分断と敵意の時代
 
 数年前から感じている違和感は高齢化とともに衰退するのではないかと思っていたがそうではなく増幅していた。あれから何年たったのか、若者のあいだに無関心がはびこり、シラケ鳥が飛んでいたころ、そういう事象は感覚的な要素が濃く、無関心は当人だけの問題だった。
 
 数年前、いや、もっと前から米国や日本の都市部で蔓延しはじめたの分断と敵意。それらは他者を巻き込む。前後に疎外感という現象もあったが、バブルがはじけたあとメディアが疎外感ということばを流行させ、一部の人間が乗せられたと思われる。
 
 近年、若者に顕著なのは反感。自分と同質でないとみなす相手に反感を持つ。そして同質とみなすと過剰に賛意を示す。これはSNSだけの傾向でもなさそうである。反感の親は無知、無理解。この種の反感はわがままということばに置きかえて差し支えない。
反感が攻撃にエスカレートすることもある。反感を持たなくても攻撃する人もいる。攻撃すると血圧も上がる。高齢者にとって血圧上昇は忌避すべきなのだが、若い人はかえって調子が上がるのだろう。
 
 利害が相反するとき、交渉者は苦虫を踏みつぶしたような顔をするだろうか。する人もいるしない人もいると言ってしまえばそれまでだが、交渉を有利に運ぼうと親近感を示し、巧言令色仁少なしと思われたくないが、揉手をしないまでも作り笑いはするかもしれない。少なくとも露骨に反感を示すことはないだろう。
 
 女子中学生や女子高生にときおり見られる他者への反感は自分と他者を差別化、区別化したいという気持ちに発する感情で、反感をあらわにすると無邪気な顔が醜くなる。
かつてグルメの世界、服飾や旅行代理店などにみられ、料理人、デザイナー、旅行プランナーも他と差別、区別することで顧客を確保してきた。生計を立てることに無縁の若者は時間をもてあましているのか、肉声での発言に扉を開いていないのか、会話に飢えているのか、スマホの書き込みに熱心。互いを不愉快にする反感を共有している。
 
 米国トランプは民主党政治家との違いを鮮明にするため過激な発言をくり返したが、彼の発言および姿勢はわかりやすい反面、敵意も感じさせてしまう。そういう言動に乗せられたのが共和党を支持する米国民の一部。
トランプの経済政策は工場労働者や農家に与するけれど、実現可能なもの、そうでないもののあることを支持者の多くは知っている。そうであっても実現可能なものに期待せざるをえない。物価は高騰し、生活は逼迫の度を増している。
 
 巷間メディアが伝えるところによれば米国は分断と敵意の世に突入したという。うかうかするとお鉢がこっちに回ってくる。米ソ冷戦時代、分断ということばはあまり耳にしなかったのに、なにをいまさら。冷戦は分断の最たるものではないか。
 
 冷戦時代、ソ連はルーマニア、ハンガリーなど東欧諸国を意にままにする勢いだった。アフガニスタンを米国の影響化におかれたくないソ連は出兵し痛い目に遭う。
あのころだんまりを決めこんでいた欧米も今回はウクライナ戦争で目が覚めた。1990年ごろまでは主として米ソの冷戦だった。ところが、ウクライナ戦争以来、中国、イラン、北朝鮮がロシアに与した。
 
 ヨーロッパでは右翼政党やリベラル右派政党の台頭がめざましい。分断と敵対の目立つ極右政党は短命に終わるだろうが穏やかなリベラル右派は長生きする。分断と敵意は物事を前進させないことを彼らは2度の大戦を経験して、もしくは歴史から学んで痛感している。常勝将軍だった米国もベトナム戦争を経験して賢くなっているはず。
 
 時代の趨勢(すうせい)に沿うか沿わないかは個人の判断なのだが、そういうこととは別に時代に乗り遅れたくない、人が集まるところで自分も意見を言いたいと思っている人たちもいて、SNSは日本流にいえば井戸端会議でもあり、ヨーロッパふうにいえば広場だ。中世ヨーロッパ、教会広場で告解がおこなわれていた。告解した者は赦される。井戸端会議は悪口も飛び交う。SNS投稿者は知らず知らず告解しているのかもしれない。
 
 SNSは発散の場。世間に名を知られている人が記す場合は重宝だが、本名と居住地を明らかにせず、顔出しもしない者が聞きかじり、読みかじりで良否、善悪を判断するのは難しと理解しながらも何か書かずにはおられない。賛否両論のなかに歯の浮いたような文言を書き連ねる人もいる。
畢竟、面と向かって発言する意思や勇気のない人が気まぐれ、もしくは一時の勢いで書き散らす。井戸端会議なら顔を見せ合うけれど、投稿者不明のSNSは井戸端会議以下。
 
 彼らは当事者気分なのだろうが、SNS開設者や野次馬メディアにとって都合のいいものがスポット的に利用されるということは思案外だろう。世論とは言いがたい意見が世論となってしまうこんにち、そのうちSNSはくだらないという世がやってくるだろうけれど、いまのところ繁盛しているようにみえる。一部地域では猛威をふるっている。
 
 ところで、アフガニスタンから米国帰還兵はその後どうなったろう。アフガンはタリバンの専横で治安も乱れ、市民、特に女性がひどい目にあい、子どもの多くは不安と疑心暗鬼の渦中に放り込まれた。帰還兵のなかには退役後PTSDになった人もいるだろうし、予算減らしの人員整理対象になって失業した人もいる。
 
 よその国の安全を守るための軍事負担は減額すべきという国論は以前の米国にもあったが、国内経済が深刻な不況に立たされ、物価はうなぎ登り、生活不安の増すさなか、工場労働者、農業従事者が、問題の多い人間であっても、アメリカンファーストを声高に叫び、雇用&生活を守ると明言している大統領候補に一票を投じるのは無理からぬことである。
 
 しかし上げ潮をよいことに調子に乗って経済効率一点張りの施策のみおこなうと痛い目にあうだろう。効率は一部の者にとって有利だがほかの者に不利となる。米国のように、多民族国家、価値観も多様な国家に全人が有利となる政策はありえない。
 
 分断はさらなる分断を生み、敵意に果てはない。トランプが政府の主だった要職に就任させたのは自分の息のかかった効率重視者が多い。おともだち内閣とメディアに冷笑された日本も唖然。トランプの手法は学級委員を運動場のドッジボール仲間から選ぶようなものである。
世界に模範を示すという看板を掲げて米国は荒ぶる心を鎮めてきた。看板を掲げることに意味があった。トランプは看板にもカネがかかるので降ろそうとしている。かくして荒ぶる心はパンドラの箱から飛び出る。
 
 閑話休題。
 
 女学生が家庭を持ったら家事育児に忙殺され、いや、夫にも分業を強い、それでも子どものころのように無闇と反感を持つ時間も余裕もなくなってくる。おおむねそれで世の中は回っている。共働きなら反感などとんでもない、折り合いをつけねば仕事と家庭を巻き込んで自滅しかねない。
 
 2006年9月、第一次安倍内閣成立時、記者会見で安倍晋三氏は、「美しい国創り内閣」と言った。まことに響きがよかったが、「日本を、世界の人々が憧れと尊敬を抱き、子どもたちの世代が自信と誇りを持てる美しい国、日本とする」とつづけたので、そこまで言うと批判の的にさらされるのではと思った。
 
 数十年、政治の世界は特に目新しいこともなく同じことのくり返し。私たちが現実と理想を分けて考えるようになってからも実現しそうにない理想を掲げた。一時の行動に感動させられたり、畏敬の念を抱くことはある。そしてそれが後々の語りぐさになることもある。
「美しい国、日本」と掲げるには勇気と責任感が要ったろう。案の定、批判にさらされる。曰く、「情緒的なことばより具体的な指針を」、「何がいいたいのかよくわからない」など。「そうありたいと願っている」という意見を蔭でつぶやいても表だって言う人はいなかった。
 
 安倍晋三氏が不慮の死を遂げ、あたりを見わたせば人物がいない。分断と敵意をあおる原因となったトランプと安全保障、経済面でいっそう強固な関係を築こうとした彼は泉下に眠っている。トランプは常に自分のほうが上だとうぬぼれているので下手に出る人を歓迎する。下手に出るとバカにする人間よりマシ。
 
 「安倍晋三氏は美しい国、日本と言った」と書けば、SNSでこき下ろされるのがオチかもしれない。美しさと真逆に位置するのが分断と敵意であるだろう。美術館で造形美をみて講釈を垂れても、分断や反感を助長する言動をおこなえば美は吹き飛ぶ。
トランプにしても美と関わりなしとは言えない。本人は大いに関係あると思っているかもしれない。人は結局、自分が思いたいようにしか思わない。しかし私たちは心の片隅で反感より共感を求めている。
 
 トランプの本質は実利を求める商売人である。明らかなのは、トランプが世界の秩序を求めていないということだ。米国民の半数は実利を優先させる。自国の経済を優先するのは構わないとして、世界の秩序を無視するのは大国のとるべき姿勢ではない。そんなことをすれば世界が混乱に陥る。言語道断というほかない。2025年がどういう年になるのか、トランプの動きによっては予断を許さず、トランプに振り回されるのを避けねばならない。
 
 きょうよりあしたが良い日でありますよう。

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