7   映画を愉しむ(5)
更新日時:
2005/04/13(水)
 
 映画の一手法に唐突なストーリー展開があり、また、いくつかののストーリーが同時進行し、いつの間にかそれらが一つの風景として融合するという手法がある。そうした手法を使ったとき、よほどうまく編集しないと、つなぎ目が木に竹をつないだようになることが多い。「微笑みに出逢う街角(Between Strangers)」はそういう点でまったくといってよいほど不自然さのない映画である。
 
 いきなり唐突とも思えるシーンがあっても、数分後にはおさまるところにおさまってしまう。それは演出に依るのではなく役者の表現に依る。自然体でやっているから無理がなく、つまりは役柄のハラが役者にそなわっているから違和感がないのだ。とりわけピート・ポスルスウェイト。
舞台ではロイヤル・シェイクスピア・カンパニーでの一連のシェイクスピアもの、そして映画では「父の祈りを」の父、「ブラス」の指揮者役の好演と「ジェラシック・パーク」での怪演。今回も強い存在感のある身障者を見事に演じている。
 
 そしてまた、ピート・ポスルスウェイトの妻ソフィア・ローレンの豊潤で、実に深みある演技が秀逸。夫との悲惨な会話が、悲惨であるにもかかわらず、妙な話だが聞きほれてしまう。いや、そうではないだろう、夫婦の会話はむしろ少ない、会話を聞くのではなく、私たちは夫婦の会話を見て、その類いまれな存在感に圧倒されるか魅了される。
 
 言葉尻とか字面を追っていると悲惨な会話でも、ふたりの名優の言葉の投げ合いともなると、悲惨さの蔭にいいようのない屈折した愛情がただよう。発せられた言葉だけがその人の真実の声であるとだれが信じよう。言葉にならないことどものなかにこそ真実が在る。表裏一体、こころ裏腹な人間をなんの違和感もなく演じる、名優たる所以(ゆえん)がそこにある。
 
 映画を見終わって、作品のどこかに消化不良があると感じたなら、その作品はあなたにとって名作でないか、もしくは、あなたがまだ成熟していないかのどちらかだ。すぐれた映画監督は容易なことでは納得も妥協もしない。すぐれた役者も同様である。
 
 「ひまわり」のソフィア・ローレンをみればよくわかる。それは、映画のなかに魂が存在すると私たちがうっかり信じるほどのものなのである。名優はつねに精魂込めてベストをつくす。
すぐれた作品に対して消化不良であると感じるのは、私たちの見方が、あるいは、魂が未熟であるせいなのかもしれないと疑ってかかることも時には必要なのだ。
 
 映画は三つのストーリーがほぼ同時進行する。いちばん若いミラ・ソルヴィーノをのぞけば個性派ぞろい。かれらの個性と表現力が映画をささえる。終幕、女三人が空港で偶然同じテーブルに座る。そういう演出で成功したのは「トリコロール」以来ではないだろうか。三人に共通するのは少女への思いである。そこにたどりつくための魂の彷徨。そして最後に魂は安息の地を見出すのである。
 
 原題の「Between Strangers」は「She lives between strangers」、あるいは、「She lives in their mind between strangers」なのかもしれません。



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